+---明智光秀---玉(ガラシャ)
| ∥------------忠利
| 細川忠興
|
+----妹
∥---------齊藤利三---+--齊藤伊豆守利宗(立本)
齊藤伊豆守利賢 |
| 徳川家光乳人
+--於福(春日局)---+--稲葉正勝(老中)
|
+--稲葉正利(徳川忠長臣・細川家御預)
細川家と齊藤(稲葉)一族とのかかわりは、略系図で判るように明智の血を通じての血縁である。光秀謀反のとき利賢は磔となったが、齊藤利三とその息らは細川忠興がかくまい、のち忠興の願いにより秀吉から助命されている。細川家に対する春日局、その子稲葉正勝、そして春日局の兄齊藤利宗などの厚誼は、齊藤一族の旧恩に対するものといっても過言ではない。
忠利は慶長五年證人として江戸に赴き、将軍秀忠にかわいがられ、養女千代姫(保壽院)を正室に迎えた。家光との関係も格別であったことが伺える。
さて細川家には春日局の書状が五通残っており、その全てが忠利宛だとされる。そのそれぞれの内容は、単なる儀礼的なものにとどまらず、大変親密で豊かな表現が特徴的である。あるときは自分の財産である250両の利殖を忠利に託したりしている。(いつも金欠病であった細川家としては、有難い申し出であったかもしれない)
寛永九年12月9日細川家は大国肥後国に入部する。江戸に於いては29日千代姫や嫡男御六(光尚)がすむ、竜ノ口邸が消失するという一大事が起こった。当然のことながら多くの人がお見舞いの書状を送っている。その中は当然春日局の書状も含まれていたであろう。(未見)
将軍家からの御見舞い(柳生但馬守)に対し、春日局にあてた忠利の書状が以下の如く残されている。
家光に対して御禮の取次ぎを頼むものである。
寛永十年正月廿九日春日局宛書状(1981)
一ふて申あけ候 われ/\やしき火事ニつき 上様より御つかゐと候て
柳生但馬殿を被下 銀子三百貫目はいりゃう仕候 さて/\かやうにか
さね/\のはいりゃう何とも申上候ハん様も無御座候 御としより衆まて
御禮に使を上申候 御ついでのときしかるへきやうにたのミたてまつり候
上殿御きけんよく御さなされ候や うけたまわりたくそんしたてまつり候
なおかさねて申入候へく候 かしく
正月廿九日
かすか殿にて
誰にても申給へ
そして二月五日に二通の書状を発している。
一通は将軍家光からの御歳暮に対するもので、これも家光に対して御禮の取次ぎを頼むものである。(春日局宛・1999)
今一通は私信であり宛名はおふく殿とある(2000)
ひごへ参候御しうきと候て はる/\人を下され 御ふミ 殊ニづきん二ツ
御こゝろさしのほと過分に存候 爰もといまた用のミひて取亂シ罷有候
御すいりやう有へく候 やかて有付可申候まゝ 御こゝろやすかるへく候
我等も一たんそくさいニ罷有候 猶重て申承へく候 かしく
二月五日
おふく殿
御返事
加藤忠広の改易に伴う熊本城の受取の大役を担ったのが息・稲葉正勝である。
一方、弟正利は大納言忠長の側近であったが、忠長の処分の後細川家に預けられることになる。寛永11年3月5日のことである。
すでに配流が決定的であったことを病の床で知った兄正勝が、昵懇である忠利に頼んだという経緯がある。(寛永11年1月25日死去)
熊本に於ける正利の奇行に、おふくは自害を薦めている。おふくの辛い一面が窺い知れる。