寛永十八年三月に至り、忠利の煩いが「以之外ニ御座候よし」情報が江戸藩邸にもたらされ、光尚は熊本に向かい廿三日申之下刻江戸を発駕している。
そして廿四日神原の地より家老宛に書状(自筆)を発している。
態飛脚を遣申候
一、越中様御気色三月十三日之夜より差発、十四日十五日之注進状切々相届、扨々苦々敷儀ニ候
一両日中ニ可有御吉左右と存待申候事
一、越中様御気色之様子達 上聞ニ、我等事昨日廿三日之晩ニ御暇被下、忝 御意共ニて候キ、則
申ノ下刻ニ江戸を立、今廿四日酉ノ刻ニ駿州至神原令着候、無程可罷下と存候事
一、為 上使曾我又左衛門殿を被差遣候、是も我等と同日ニ江戸を被立候事
一、三齋様其元ニ被成御座儀ニ候間、御養生之儀其外万事式部少ニても誰ニても為使得 其意可然
候事
一、式部少所より別紙之書状差越候、是ハ返事可申候、猶追々御吉左右待存候、恐々謹言
三月廿四日 肥後 御判
長岡佐渡守殿
有吉頼母殿
長岡監物殿
長岡式部少殿
米田与七郎殿
沢村宇右衛門殿
廿五日浜松に到着した光尚に対し、十七日忠利君御逝去の報がもたらされた。光尚は下國を取りやめて江戸に引き返す。
その折の書状
越中様御煩終ニ不被成御本復、三月十七日之申刻ニ被成御遠行之由、同月十八日之書状歩之
使番深海太郎兵衛差越、遠州於浜松令披見、無是非候儀共絶言語候、我等儀三月廿三日之七
ツ時分ニ被下御暇、即江戸を罷立、同廿五日之八ツ時分遠州浜松迄下り、右之註進承候ニ付而
江戸へ御年寄衆へ右之通申入、我ら事江戸へ罷歸候、内々我等存候も自然之儀も候ハゝ、承次
第江戸へ可罷歸覺悟ニ相究有之処ニ、其方共より申越候趣同意ニ候段感入候、万事其元之儀は
越中様常々被仰付置候御仕置之通可被申付候、御遠行之註進六嶋少吉・津田六郎左衛門を差
越申越候由、至今日不参候、恐々謹言
三月廿五日 肥後 御判
長岡佐渡守殿
有吉頼母佐殿
長岡監物殿