寛永十年一月廿一日小田原で地震が起きている。忠利は二月八日付書状(2014)において、八人の幕府重臣に発している。
態令啓上候 小田原大地震にて町屋なとも損申候由承候 更共
其元は相易儀無御座候由承及候へ共 無御心元存候 各様迄
以使者申上候 恐惶謹言
二月八日
細川家史料に於いては、八人の名前が横並びに書かれているが、これはどうやら同文にて八人の人に別個書かれたものと思われる。
その八人とは、酒井雅楽頭(忠世)・土井大炊頭(利勝)・稲葉丹後守(正勝)・井伊掃部(直孝)・松平伊豆守(信綱)・永井信濃守(尚政)・青山大蔵少輔(幸成)・酒井
讃岐守(忠勝)である。別個であろうとするのは、氏名の下に「自筆」「尚々書」の書き込みがあることによる。
自筆は小田原城主である稲葉丹後守である。尚々書の書き込みがあるのは、土井大炊頭と酒井讃岐守である。
ここでは特に土井大炊頭宛の尚々書(自筆)を取り上げる。
尚々 昨日承かけに早打上申候へ共、海上不存候而 又如此ニ
使を各様へ進上申候 御本丸ニ此前のことく御庭無御座候哉 爰
元も 細々御本丸御庭なく 常々無御心元奉存候 以上
只今右近殿より状参 ゑと御城御庭(殿)少も不苦由申来候 尚々
目出度存候
ここでは、忠利は江戸城に庭がないことに触れているが、これは殿舎のことを指しており建物が建て込み、とっさのとき避難できる広い庭がないことを心配しているのである。
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三月十八日の土方雄高に宛てた書状(2088・抜粋)に於いては、熊本城の事に触れている。
城之儀は事之外矢倉多 家もつまり 少も庭無之候上 度々地震
淘申候故 本丸ニ居申様無之候て 下ニ花なと作候て事之外廣
屋敷御座候間 先それニはいり候て居申候
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又、五月朔日の盛甫宛書状(2155)にも同様のことが記されている。(抜粋)
小田原地震ニ丹後殿御家中衆一人も無何事之由 珎重候 江戸
も此中ハ地震止申候由 爰元も此間は一切地震淘不申候 今迄
は花畠へ移候而居申候 所も廣能御入候事
この盛甫成る人物は、稲葉正勝家臣と考えられている。
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更に五月十一日の森忠政宛書状(2177)にも次の記載がある。
爰元ハ切々地震少宛淘候て 本丸ニハ無庭気遣ニ御座候而 二
ノ丸へ下候て居申候 此比も淘不申候
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年表稿などを見ると、熊本入国以来城内本丸に在った忠利が、度々花畠邸に移る様子が伺えるが、その理由が地震を恐れてということが判る書状である。
城内に地震間が作られ、その後整備が進んだ花畠邸にも藩主の常の御間近くに、地震間が造られることになる。
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