津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

齊護公御家督一件之事 (二)

2012-08-15 08:39:03 | 歴史

                                  濱町様思召を被奉伺候迄刻移て十七日之晩景ニ
                                  及候間此隙を時として唯之允早■■奉伺候御意を
                                  奉して此日之夕方ニ打立江戸を指して馳上り申候是
                                  取延してハ以之外大事也一刻も追■可懸止と被申
                                  候得共大事之御使ニ付我罷上ランと申人一人も無之處
                                  杉浦仁一郎進出事遅々ニ及候而ハ唯之允目に國を被誤
                                  可申間人々之内向ひ玉ふ御方無之候ハゝ某御墨附を給り
                                  て是より馳向可申と望出候此仁一郎と申は竹田菊池之騒
                                  動を始とし八代宇土の御用ニ至迄度々之大事を相勤
                                  人々被許ハ器量の侍ニ而有し候間一刻も打立可然と

                                  宇右衛門殿一番ニ被申出衆儀是ニ一決して則此御使を被
                                  申付候于時年四十六 時は十八日辰ノ中刻唯之允ニ後るゝ事
                                  一晝夜御墨附を給りて早速早駕ニ打乗り揉々内
                                  裏ニ至り第一ニ飛舩を雇ひ乗込と直様数百両之小判
                                  を取出て舩板ニ張付ケ刀を把て舩頭ニ膝詰懸此小判
                                  悉ク為取候間皆々力を可出と懸命乃使ニ罷上れは
                                  若乗形を失ふて約束之日数を過ハ己等一々ニ薙切
                                  て死んと誓言を立て申渡候ニ付舩頭共大ニ怖し死
                                  力を出して漕立候間未タ約束の日数ニ不至して大阪へ
                                  着岸致し則中川尋候得は先刻澱舟に乗込

                                  然と申し候是天之與なり早中川目ニ追付たりと平瀉通りを
                                  馳上る平瀉通と申ハ澱之塘地ニ而則伏見へ出る捷路也
                                  唯之允も舩頭を励して急候得共仁一郎此捷路を取て馳
                                  走候に付終に此處ニ而追越し東海道を馳通り箱根の
                                  関所ニ馳付候然處追々之早打ニ不審を立居候関所の
                                  士如何なる大事之出来候歟子細を承りて通し申さんと駕
                                  を制して不為通御用ハ急ニ中川ハ近付進退究せる難
                                  所なり時ニ仁一郎一ノ策を思案し是ハ窟竟の中川を括
                                  り場なりと頷き御尤の御儀ニ存候然し某ハ下役の者ニ而
                                  一切様子を不存候間御返答出来兼申候追付跡より

                                  参候中川唯之允と申者留守居役を相勤専ら此節
                                  之儀を取斗候間委敷此者へ御尋可被下と申候得は事
                                  故なく通し申候然處唯之允引続て馳着候ニ付待設之
                                  事ニ而是非とも承り申さんと申懸左右より取懸候間ニ仁一
                                  郎ハ思ひの侭ニ馳脱て御國を出て僅八昼八夜同月廿六
                                  日の早天ニ龍之口御屋敷へ到着致し御小屋を打廻り詰
                                  舎之人々江其旨を致披露候處唯之允馳付候ニ付
                                  濱町様其許へ仰聞候御旨趣(ママ)被思召直公邊より
                                  御養子之儀御断被仰上御血脉筋被遊御立候と御
                                  墨付之趣厳重ニ申渡候間唯之允大ニ力を落し即

                                  日直ニ引入候斯所ニ舩路自然之用心として中國路を馳上
                                  り候西浦九兵衛 時ニ御目附 當君公御養子と可奉成との濱町様
                                  御墨附を奉して龍ノ口へ致参着候ニ付仁一郎則織部殿
                                  内蔵次と談合して先ツ公邊より之御養子之儀一橋様へ
                                  御断申上 當君公を上永田町御屋敷より奉迎而御
                                  養子と奉成候間二月十二日 少将様被遊御逝去御跡式
                                  無相違被仰出候 御先祖様御以来之御血脉被遊御
                                  継続々(ママ)ニ付上下一統初而安堵之思ひをなし申候去ハ
                                  此度之大事を被致儀定候重役之老人達皆身命を
                                  投て共ニ國家を被守然ニ忠義之優劣ハ無之候得共

                                  其功勲ハ仁一郎第一ニ而有之候
                                         天保九年       萩角兵衛  閑餘漫録より 

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                             一 杉浦ハ右之御用ヲ達引取候時中川着イタシ御玄関ニテ中川ニ逢候
                               間杉浦 中川サンオハヨウ ト申候間中川コシガヌケタトノ事此処ニ
                               書加置
                             一 津田三十郎ハ其時分御用人ヲ相勤居候■中川濱町様江直ニ
                               言上候筋ヲ伺居候間自宅へ帰り行水イタシ其内ニ白木綿ヲ
                               縫ハセソレヲ着シ御手打のカクゴニテ濱町様御目通ニ罷出候而御
                               諫爭申上候テ其後引籠リ候テ其後ハ人ニ面会断リ外出等
                               一切不致候由段      此二ケ条ハ承傳居候ママ 


                                   

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