全六葉の内、第一葉の前頁
幽齋公以来細川家の危機は幾たびとなく訪れている。果敢な英断や細心の配慮をもって主従一丸となり是を乗り越え明治維新に至っている。
細川齊護公御家督に関わる一件もまさに其の一つであるが、正史に詳らかにされていないのでその詳細をご存知の方は意外と少ない。
細川齊樹公について家記は、文政九年丙戌二月十二日に死去した旨を記す。
継嗣がなかった齊樹公の危篤の状況にあたり、幕閣周辺から齊樹の正室・蓮性院の実家一橋家からの養子を入れてはどうかとの申し入れを受ける。そのため国許へ使者を送り善後策を協議している。申し入れに抗ずるように、細川家の先祖以来の血脈を絶やさないようにと、懸命な努力がなされる。その顛末である。
齊護公御家督一件之事 諦観院齊樹公
文政八年十二月中旬より少将様龍ノ口御屋敷ニ而御疱
瘡被為煩次第ニ御容體重リ同九年正月二日ニ至御危篤之
御容躰ニ被為及候ニ付上下一統大切之御儀と奉気遣候
處一橋様より兼々御出入之御醫師橋本一甫老を以長
々為御親公邊より御連枝之内御養子ニ被進度被思召上
候段御留守居中川唯之允江被仰聞候唯之允詰合之御
家老有吉織部殿併御奉行永田内蔵次江其段相達
此儀一刻も御國元へ罷下可相達迚長尾権五郎と同道
致し正月六日ニ江戸発足夜を日ニ継て道を急同月十五日ニ
熊府ニ到着致し先御用人有吉清九郎殿方へ罷越其段
相届候ニ付御家老衆御奉行松井直記殿宅へ惣打寄
ニ而唯之允へ其旨趣を被問候處公邊より御養子被進
候其儀一橋様より被仰聞候段申出公邊より御入ニ相成候へは
天草并對之御道具金紋御先箱等御土産ニ相成御
手傳等も御遁ニ相成候段及演舌尚引取書をも差
出候ニ付僉儀之上追手是より及指図可申候間先旅宿へ
引取候様と申聞候而御先祖様御已来御血脉筋御
続之儀ニ付公邊より如何ニ被仰聞候共決而御受申上間敷
段■■議定ニ被及候然處唯之允旅宿ヘハ引取不申候直ニ
二ノ丸御屋形ニ罷出候而召出を願ひ如何申上候哉
濱町様より御袷羽織を拝領仕引取然由勿論國家之
大機密聊脱之然儀ハ無之候得共難有儀ハ御代々様御
積善之御餘慶神明擁護之力ニ而誰申となく此儀早
御家中へ相聞候間人氣忽動揺致し悪き唯之允目安々(ママ)
と江戸江ハ返し申さしと可打果及覺悟候御家老衆御
奉行衆ニは二ノ丸御屋形爾々の御様子と被聞付十六日
に又又被致惣打寄此儀連々に及候而は甚以大事也
一刻も濱町様思召を可奉伺と山城殿を始宇右衛門殿
沢村于時御勝手大御家老 九郎太郎殿郡于時大御目附 服部多門御奉行帳口
杉浦仁一郎御奉行副役 等忠心義謄之重役之諸衆専
■ニ致儀定御用人津田三十郎を以て御家中
人氣動揺を■■御血脉決而御絶し有之間
敷段身命を不顧被申上候得共一先奥へ被為入候而
亦々御出座有之三十郎を被為召皆共之心得奇
特之儀ニ被思召上公邊より御養子之儀御差はまり
被成御断候間心丈夫ニ此儀取斗候様可申聞段被仰
聞尚御墨付を被成下此旨又家中之者共へも為
安心頭々より内々申聞置候様御意有之候ニ付山城殿
初皆々安堵之思を被致候然處御家老衆再打寄り
続く(二)