津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

望んで熊本

2012-08-29 08:37:26 | 史料

 加藤忠廣の改易による大国肥後の新しい国主について、隣国豊前の細川ではないかとの噂は早い段階でちらほらあったようだ。

寛永九年八月十六日の忠利が内藤正重(秀忠側近・5,000石)に宛てた書状(1726-抜粋)には次のようにある。

            肥後之國我等ニ被下度由 かやうの大國ハいつかたにても所望ニ
            御座候へ共 ゆゑなく拝領ハ卻而(カエッテ)餘のそしりいやにて候間
            もとのまゝがましかと存候 おかしく候 恐惶謹言
                八月十六日

                内外記様
                     御報

噂話であるからそうそう嬉しがって返書を認めるわけにも行かず、一応殊勝な感じである。
実はこれ以前、忠利が肥後國を希望する書状が存在するのである。畏友榊原職直に宛てた六月十三日の書状(1589- 抜粋)がある。

           肥後ノ國へハ誰が可被遣候哉 是ハ能々被成御思案可被仰付と存
           候 御仕置ハ此國主ニ而大かたかたまり可申と内々存候 と角か様
           ニ遠國ニ居申候は 肥後へ参度候 御出頭候而可頂御取合ニ候 さ
           れとも我等ごときの草臥もの彼國へ参候ハゝ 御ためニも成ましきと
           存笑申候 此國主ハおそく候ても 末々まて可然様ニ仕度事ニ候事

親しい間柄の人物とはいえ、幕府の要職にある人に対しての書状としては、いささか軽口のそしりはまぬがれないところであろう。
三齋が知ったら大目玉ものである。 

そして十月四日江戸城にて忠利に肥後転封が命ぜられるのである。
予想していたとはいえ、自ら望んだ大國熊本を拝領した忠利の気持ちは如何ばかりであったろうか。
この時期の忠利の書状は到って少ない。自らが江戸に在る事によるのだろう。 

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無念中/\可申上様無御座候

2012-08-29 08:26:42 | 史料

 寛永十年八月廿四日酒井忠行宛書状(2318)の追而書(2319)に見える一文である。
宛名の酒井忠行は酒井雅楽頭系の八代当主であ、この時期幕府の奏者を勤める家光側近である。

書状(2318)の大意は、幕府から預かった最上光直の妻子などについての報告に誤りがあったので追加説明をしている。
先の報告では「甲斐守子ハ三人御座候、内二人ハ男子、十三と七ツとに罷成候、壹人は女子にて御座候・・・」と報告したが、実は今一人女子があってこれを報告漏れしていたというのである。

       (2318)尚々書   山野辺義忠
       尚々 備前へ御預之山邊右衛門と申者之女も楯岡甲斐守娘と申候
          最上
       是ハ■上にて婦夫ニ罷成由申候 不残妻子書付候様ニと被仰付候付        ■ 宀ニ取
       如此候 以上 

ただ是だけの話なのだが、その後が仰々しい。追而書(2319)は自筆であることもそれを窺わせる。
  
       追而申上候 今度之書違 無念中/\可申上様無御座候 少ハ我等
                                            公界
       如在なき事も御座候間 罷下候刻以面可申上候 申わけくかいへ出
       ぬ事にて御座候 書付共御用ニ不立御迷惑可被成と 是のミ迷惑仕
       候 被入御念 我等留守居共へも存候は申上へと被仰聞候段 具申
       越候 忝存候/\ 只今之書状之分ニ而御座候間 可然様ニ奉頼存
       候 恐惶謹言
            八月廿四日

            酒阿波守様
                  人々御中 

忠利の性格を窺い知るような書状である。

後年光尚代、幕府から同様の問い合わせを受けているが、こちらにも山野辺義忠に嫁いだ娘については欠落している・・・・・
                                     楯岡家先祖附の間違い


        11代         12代
  最上義守---+--義光---+--義康
          |       |  13代  14代
          |       +--家親---義俊
          |       |
          |       +--義親
          |       |
          |       +--(山野辺)義忠
          |             ∥
          |       +-----
          |       |
          |       +-----● 
          |最上甲斐守  |
          +--光直---+--孫一郎・定直---→(楯岡小文吾家)
                   |
                   +--蔵之助--------→(楯岡三郎兵衛家)

                     
ちなみに山野辺義忠とはいわゆる最上騒動の当事者で、最上義俊の叔父に当る人物である。なかなか人望ある人であったらしいが、義俊派・義忠派と藩内が二分する対立により名門最上家は没落することになる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E9%A8%92%E5%8B%95
最上光直の子息が楯岡姓を名乗って細川家に仕えた。      

  

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