将軍家光は寛永十一年六月、上洛の為扈従の者三十万余を率いて江戸を発する。七月十一日家光は入洛するが、九日膳所に到着の知らせを三齋に伝える忠利自筆の書状(732)である。
上様今日九日せゝ明日
二条へ御つき被成候候
よし只今板倉殿より被申越候以上
存之外早ク
九日 越中
御上著めてたく候かしく
佐方與左衛門尉殿
江戸に在った忠利は五月九日暇を得て江戸を発駕、途中有馬で湯治をして五月廿一日上鳥羽に着き、六月十二日京都に到着した。
一方三齋も五月廿九日八代を発し、六月廿日京都に到着、烏丸家裏を宿所とした。
七月十九日諸大名二条城に会し、三齋と忠利は翌廿日に家光に謁見している。
なかなか帰国の暇が出ない中、翌閏七月廿九日お許しが出、忠利は八月一日上鳥羽を発し十三日熊本着、三齋も下血が続く中、三日に発駕十四日に八代に帰っている。
家光は八月五日京を発駕、大イベントは終了した。後年将軍家茂が止むを得ず上洛するまで、最後の将軍家栄光の上洛である。