津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

高麗門記 -- 2

2013-04-21 15:30:05 | 熊本史談会

先に 高麗門記 をご紹介したが、白文でありなんとかお読みいただける方がお出でにならないかと念じていた。
今般MU様のお手を煩わせてこのように解読をいただくとともに、ご紹介することにもご理解をいただいた。

ここで述べられている事で注目すべきことは、高麗門を京観としているところである。
京観とはまさしく戦勝記念碑の意味であろう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E8%A6%B3 
多分蔚山城の門を解体して熊本の地に持ち帰り、戦勝記念碑的意味合いと共に、熊本城西南の地の守りとしてこれが建設されたことを物語っている。
時期が判らないが、この門は名前だけを残して櫓門に作り替えられた。

西南戦争においてはまさしくこの高麗門記にある如く、西郷軍は祇山=花岡山に砲を据え熊本城攻撃の足掛かりにしたのである。
熊本城防御の戦略上、重要な門として取らえられていたことが判る。

尚、これを著した人は中山黙斎(昌禮)で、家老有吉家家臣である。陪臣ながらも藩校時習館の塾長を勤め、又、「井田衍義」「度支彙缶(タクシイカン)」「肥後官員職領指掌図」「中山市之進上書」その他、有用な著作を多く著している。
これ等の功績により、藩は有吉氏に請い直臣ならしめんとしたが、「固く二君に仕へざる」義を主張して固辞したといわれる。 

コメント
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