肥後国衆一揆の発端となる、新国主佐々成政の隈部氏攻めから、城村城攻めにいたる始終を「隈部軍記」に伺う。
肥後古記集覧巻十から引用する。
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天正十五年、関白秀吉公、嶋津御征伐御凱陣の刻、肥後の国侍奉拝謁、武備優烈の聞へ有輩には本領の外加増の地をも賜り、国の守護職を佐々陸奥守成政に被仰付、諸国侍相良頼房ニ本領五百町、伯耆顕孝ニ同五百町、城十郎太郎久基ニ同八百町、内空閑刑部大輔鎮房・同備前守鎮照ニ本領五百五拾町の外、玉名郡江田村用木村ニおいて五拾町加増、和仁勘解由親実ニ本領壱百五拾町、大津山修理介家稜に同三百拾弐町、辺春能登守親行ニ同百弐拾町、臼間野太郎宗郷ニ同百七拾町、隈部但馬守親永ハ本領八百町の外、川尻走潟ニおいて三拾六町加増の地を賜り、其外小代下総守・天草伊豆守・志岐林専・大矢野・高森等を初、何も本領安堵無相違賜りけり、佐々陸奥守成政ハ同六月六日入部有て隈本の城に移りけれハ、国中の諸城主登城有、釣命の趣政令す、国侍各無異議礼を相述、斯て其後成政つく/\思案されけるハ、当国ハ久敷守護迚(トテ)もあらされハ、国中の田畑験地せしめ、今迄何町何反と云しを、何拾何石と究むへしと、其旨を沙汰致し、生駒小千と云者に竿を打せ、今迄ハ三百六十歩を以壱反と云しを、是より三百歩を一反と定む、是を生駒竿と云、然処に隈部但馬守親永、其儀ハ本領八百町の外加増の地とも玉ハり、秀吉公御朱印も致所持居候得は、験地の儀は御容赦可被下旨、再三雖相断、成政無承引、験地の儀は国中一統の事ニ付、隈部領迄容赦難成是非、及異議令領地没収へしと、成政怒り大かたならすと聞、某代々の領地、秀吉公より加増の地をも玉ハりし事なれハ、何そ成政の栽配ニ頂へき訳なし、外々ハ兎もあれ某の領地の儀ハ験地の儀ハ難成由を被申ける、成政安からす思けれ共、事ニよせて計るへしと内謀を廻しけるは、幸日吉太夫居合候へは、各為饗応として城中ニ能興行いたし候間、為見物御登城可有之由、廻文を出されけれる、各登城有へきに極ける、然るに城十郎太夫久基ハ成政か内謀の事を伝へ聞、隈部内縁の事なれハ密に親永ニ告知す、親永ハ左社(コソ)有へき迚病気と偽り出仕致さす、成政謀のならさる事を深く憤り、甥の佐々与左衛門宗能 宗能ハ成政姉の子、良峯氏也、後ニ成政佐々の号を与へ同姓とす を惣大将として、家人前野又五郎忠勝・久世又助・三田村勝左衛門ニ三百余騎を添、隈府の城ニ差向る、成政か曰、隈部多勢にて責かたくは急ニ註(誅カ)をすへし、某出馬して討へしとぞ申ける、親永ハ兼て期したる事なれハ、兵粮・粕藁に至迄沢山ニ積貯へ、其勢千八百余騎にて楯籠る、寄手此躰を見て成政に斯と註進す、依之七月廿六日、自六千余を率て隈府に(のカ)城ニ押寄、犬の馬場口陣を取、城中ニ使者を遣し、御辺逆心と沙汰有て(にカ)よつて、某出馬せり、逆意を翻し和予於有之ハ、望ニ任せ験地も致す間鋪候間、於承引は各人質を出さるへくとぞ申遣ける、親永の返辞曰、某此節の籠城ハ、領地を験地の儀再三及断候儀、甚御立腹有之、某可有誅戮御内謀の由を承り、不得止事、及籠城候、験地の儀有御赦免て事故なく、本領安堵無相違仕ニおいてハ、莫太の御恩なるへし迚、上下九人の人質をそ出されける、
蛇足 : 幕末の佐々友房、現代の佐々敦之に至る熊本の佐々家は 佐々与左衛門宗能 を家祖としている。
細川家家臣として初代勘兵衛が召出(200石)されるのは、元禄八年(1695)綱利代である。
実に108年の刻をへているが、肥後国が佐々氏を迎え入れるためにはこれだけの日時が必要であったのだろう。
水戸光圀の家臣・佐々助三郎が「大日本史」編纂のための史料収集に熊本にやってきたのは、貞享2年(1685)のことであった。