武家奉公人と労働社会 (日本史リブレット) | |
森下 徹 | |
山川出版社 |
武家奉公人と労働社会 (日本史リブレット) | |
森下 徹 | |
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九州征伐を前に肥後国に割拠する国衆に対し、秀吉は領地を安堵している。薩摩の嶋津を平定し、帰途秀吉は肥後国主に佐々成政を定めて帰洛する。
成政は秀吉から検地は罷りならぬことを指示されながらも検地を強行する。肥後国衆の一揆の原因はこれに尽きるし、秀吉の指示に違反したことで成政は
我が身を滅ぼし、国衆も一揆を起こしたことにより領地を召し上げられ、加藤清正の登場により肥後国は新たな時代を迎えることになる。
県北山鹿の城村城に侍・農民一万五千人が籠城し、佐々軍と対峙し一方ならぬ抵抗を試みる。
ここでご紹介する文書は、後年細川光尚がこの地を訪れた折、籠城に加わったという老人の話として伝わっているものである。
「城村城守戦記」(肥後古記集覧巻十)も同様のものであるが、これにはこの文書の前段として、「前後の覚書」が書かれている。今回は上妻文庫から
「山鹿郡城村籠城之次第」のみをご紹介する。
山鹿郡城村籠城之次第
一天正十四年五月廿三日太閤肥後國於隅本國侍不残被召寄其中ニテ宇土へ本知五百町・城へ本知八百町・隈部へ本知八百町此三人ハ通之御朱印
被遣當國之守護ニハ佐々陸奥守成政ヲ被召置被成御上洛事
一同年七月朔日之御礼ニ隈部但馬守親永隅本へ出府之時成政被申候ハ隈部持分八百町之御朱印ニテ候条検地ヲ入可相渡由被申候ニ付隈部色々
断リ被申候得共成政同心無之ニ付隈部云菊池・山鹿・山本三郡ニテ八百町ハ先規之通ニ秀吉公ヨリ被為拝領候然所ヲ當国ノ侍數多在之中ニ隈部領
分バカリ検地被仰付候事外聞不及是非候条検知成申間敷旨ニテ居城菊池之内隈府へ引籠ル 成政七月廿四日之夜六千程ノ人數ニテ隈部へ發向其
砌親永ト嫡子隈部式部大夫親安ト親子不和ニ成 親安ハ山鹿郡城村之城ニ在城ト成政聞テ親安方へ成政ヨリ被申遣候ハ元来其方親子不和ノ儀無其
隠惣而隈部氏ハ國侍ノ内ニテモ別而故有家ニテ候条家ヲハ滅亡有マシク候 親永不所存故隈府ノ城ヲ破却スル也 跡式之儀ハ無相違其方へ可遣候
条早々城村ヨリモ人數ヲ出シ可申旨申遣 就夫親安色々相談之時有動大隅守兼元申候ハ於此儀脇ヨリ兎角難申上候 其子細一ツモ無之候 又陸奥守
殿ト御一味被成候得ハ現在之御親父ニ弓ヲ御引被成候 此両条ハ何レノ道ニモ御分別ノ趣所ニ御極候ヘト申時親安ノ曰(イワク)時ニ随ヒ義ニヨツテ侍
ノ身命を捨テ家ヲ破ル事古今不珍候 イカニ義絶タリ共現在ノ親ヲ討果シ候ハ天道ニ背キ人口ニモ落悪名ヲ可蒙候 然上ハ今度ハ日来ノ遺恨ヲ捨父ト
一所ニ討死ト相極ナリトアリ 兼元ヲ始何モ御尤至極ト一同仕此上ハ陸奥守殿ニ對シ手ダテ可然由ニテ先陸奥守殿ヘハ御意畏奉存候御日限ヲ承直ニ
隈府へ人数ヲ出シ可申トノ返事アリテサテ此内意ヲ親父親永へ被申合陸奥守殿隈府ヲ被攻候時親安裏切被仕又城中ヨリモ打出申内談相究候處ニ親
永之一家老多久大和別心仕陸奥守殿へ右ノ首尾ヲ一々言上剰 (アマツサエ)城ヲ被出陸奥守殿ハ犬ノ馬場口へ親安ハ城村ヨリ直ニ玉正寺原ト云所陸奥
守陣所ヨリ川ヲ隔テ切所ヲ構へ陣ヲ取 其時陸奥守殿ヨリ郡評定可被成候間彼方へ被参候ヘト使三度来ル 其使ノ様躰アシク在之ニ付親安云如何様
内々ノ儀陸奥守殿へ相知レタルモノト見ヘタリ然上ハ重テ使来候ハゝ討果シ候ヘト被申付然處ニ又使来ルヲ則討果ス 其ヤウスヲ多久大和承人数千
五百ニテ追手ヲカタメ居ケルカ其マゝ引破リ陸奥殿人数ニ加リハヤ追手ヨリ攻入 冨田安藝ト云家老城中ヨリ突テ出討死仕候 如此ノ仕合故親永城ニ難
堪法躰シテ降参ス 即刻式部太夫親安陸奥守ト可有一戦ト被申候ヲ何モ侍共申候ハ如此勝ニノリタル大勢ニ此方ノ小勢ニテシカモ切所ヲ越懸リテハ
千ニ一モ勝利有マシク候 唯是ヨリ城村へ引取籠城被成候ハゝ定テ陸奥守殿御馬ヲ可被向其時切所ニ引請一戦可然ト一同申ニ付親安モ同心ニテ城
村へ引取被申候 サテ隈府落城ニ付陸奥殿諸御仕置在之隈本へ御歸陳其後同八月七日城村へ發向先日輪寺山之上ニ物見ヲ上ケ城ノ躰ヲ見セ追手
原口へ人数ヲ押寄足軽セリ合在之時城中ヨリモ追手ヨリ五六町南下古閑ノ谷ヲサカヒ足軽ヲ出シ鉄炮ニテ互ニセリ合在之所ニ城内ノ足軽ノ内ヨリカゝ
リ申所ヲ陸奥殿先手ノ足軽大将カゝリニ懸リ城中ノ足軽ヲ追立大手原口ノ門ヨリ半町程近ク迄乗懸申所ヲ有働左京・絲木宮内・同小万返合セ右ノ足軽
大将ヲ追返シ其日ハ勝負モ不決互ニ死人ナシ
雑花錦語集(巻百十四)