津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■文久三年以降

2015-10-18 11:40:48 | 歴史

 「熊本藩江戸詰一ヶ年の諸経費は拾貮萬石と云。然るに今軍艦を製して江戸詰・米・味噌・醤油等を輸送し、又家内を國に就かしむる時は一ヶ年貮萬石にて済べしと云へり」
肥後学講座Ⅲにある堤克彦氏の「肥後の幕末ー福井藩士村田氏寿の『関西巡回記』を読む」に書かれている一文である。

軍艦を作って熊本から諸々の物を送り、奥方やお子、お付の女中衆などを国許へ返せば12万石の懸かりが2万石で済むであろうという話である。
ごもっともな話と納得させられるが、前者は行われたような形跡は見受けられない。
後者については、文久二年(1862)参勤交代の廃止や妻子證人の廃止や献上物のあらためなどが行われた。
熊本藩に於いては藩主夫人や御子などの住まいが準備されるが、同居するという有り様はなく巨大な住まいの建設は大変な物入りであったろうし、帰国の費用も膨大なものとなったであろう。
明治の改元(1868)まで約6年、果たして収支は如何様であったろうか。

明治二年の華族制度が設けられ、これらの人々は東京移住が義務付けられる。韶邦は翌三年末の上京にあたり東京移住を申し付けられそのまま帰郷することなく今戸に新邸をたて新しい生活を始めることになる。

藩士たちは秩禄返還をへて身分の隔てがなくなった世界で、厳しい風にさらされていく。

 

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