甲斐宗雲についていろいろ調べている中、「肥後古記収覧」にある甲斐氏系図に間違いがあることに気づいた。
この系図をもとに資料を見ていたらつじつまが合わなくなり発見に至った。
甲斐家の祖・武本は武房の子なのだが、編者の大石真麿は兄弟にしてしまった。これは「甲斐安右衛門」なる人物の「覚書」を文政五年に写したというから、原本が間違っていたか。菊池氏系図は「新撰事蹟通考」で知られているが、安右衛門氏がご承知なかったのであろう。
古記録の取り扱いには充分注意する必要がある。
菊池武房---+---隆盛---+---時隆
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| +---武時---武重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菊池氏
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+---武本---武村---重村---重並---重安---重綱 ---親宣 ---親直(宗雲)・・・・・・・・・・・・・・・甲斐氏
追而書
武房亡き後、嫡子の隆盛もすでに亡くなっていたため、孫の時隆と弟の武本の間で一族が両派に別れ家督争いが起き、幕府により時武の家督が認めらた。
このため武本の怒り激しく両者間で争いが起こり二人共死亡するという悲劇が起きた。
この後、時隆の弟・武時が家督し、武本の子・武村は鎌倉から逃げて甲斐の国に赴いたという。その子孫が東北地方に多い菊地氏の祖であるという。
民話で有名な遠野市は人口の二割以上が菊地氏だときく。すごい勢いで広がったことになる。
30年後北朝側は重村をして、南朝・菊池氏を攻めるべく熊本へ派遣した。重村は甲斐氏を名乗り代々の姓とした。
南北朝の対立が、同族の相剋という不幸な事態に突き進んでいく。