津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■内記(忠利)の書状

2015-10-03 09:43:04 | 史料

 「内記」の署名がある書状である。
忠利は慶長五年(1600)正月、證人として江戸へ赴いている。当時十五歳光千代と称した。
その年八月秀忠の諱字を賜り「内記忠辰」と名を改めた。後忠利と名乗るのだが「内記」を改めて越中守を名乗るのは元和八年(1622)の十二月の事である。
                       以上

                      今度我等煩
                      為見廻人を
                      指越候今之分
                      ニ者頓而可本
                      復間可心安候
                      謹言
                          内記
                      六月三日 花押

                      入江淡路守殿

 

家臣の入江淡路の「見廻」にたいしての返書であるがいつの比のものか判らない。入江淡路は幽齋公の田邊城籠城を共にした。
内記は特にその苦労を称えて次のような書状を発している。

                      入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻二十八)
                      折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々
                      苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之
                      外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大
                      略ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
                         五月三日               内記忠辰(忠利)御判
                         入江淡路殿 まいる 

あまり時代が変わらないように思えるが如何だろうか。もしそうだとすると、忠利の「煩」は相当若いころからの事となるのだが・・・・・

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