「内記」の署名がある書状である。
忠利は慶長五年(1600)正月、證人として江戸へ赴いている。当時十五歳光千代と称した。
その年八月秀忠の諱字を賜り「内記忠辰」と名を改めた。後忠利と名乗るのだが「内記」を改めて越中守を名乗るのは元和八年(1622)の十二月の事である。
以上
今度我等煩
為見廻人を
指越候今之分
ニ者頓而可本
復間可心安候
謹言
内記
六月三日 花押
入江淡路守殿
家臣の入江淡路の「見廻」にたいしての返書であるがいつの比のものか判らない。入江淡路は幽齋公の田邊城籠城を共にした。
内記は特にその苦労を称えて次のような書状を発している。
入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻二十八)
折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、於田辺二長々
苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、爰許長々之義迷惑推量之
外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大
略ハあつかいと申候条、可為其分と存事ニ候、恐々謹言
五月三日 内記忠辰(忠利)御判
入江淡路殿 まいる
あまり時代が変わらないように思えるが如何だろうか。もしそうだとすると、忠利の「煩」は相当若いころからの事となるのだが・・・・・