明後日の史談会へ向けての史料の準備がようやくできた。歯が痛かったこともあって少々時間が過ぎてしまった。
今回は福岡(朝倉)と熊本の荒木村重の子孫四家を取り上げる。
寛永諸家系図・荒木善兵衛家系図・荒木氏系細田家系図・荒尾荒木氏系図・朝倉正福寺荒木氏系図などを照合しながらの話となる。
寛永諸家系図には荒木善兵衛や荒尾荒木氏の事にはまったく触れていない。
だれが荒木家の事をまとめて幕府に提出したのか、鍵はその成立の年(寛永十九年)にあるように思える。
私は荒木局によってこれらの情報はまとめられたと考えている。
此処には村重の娘・荒木局やその養子となる甥の村常の事には触れているが、荒木局が罪を得て配流となることや、養子の村常が連座して徳川家のろくを離れたことには触れていない。村常が細川家に召しだされて細田栖隠と名を変えたことは光尚代のことであるが、村常=栖隠と理解されるのは最近のことである。
善兵衛は弟になるのだが、異腹でもあろうし幼い頃細川家で育てられていることなど知らなかったであろうし、荒尾の荒木氏についても承知していなかったものと思われる。
朝倉市の荒木氏(正福寺)の系図は、寛永諸家系図そのものである。
荒木家については瓦田昇氏の大部の立派な研究書「荒木村重研究序説」があり、一族の方々が研究会報を出されるなど大変積極的である。
そんな中でずうずうしく、熊本における荒木家について諸資料からお話をしようと思っている。