津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■地震から四年、そしてコロナ禍

2020-04-14 17:09:26 | 熊本

 2016年(平成28年)4月14日(木)21時26分、熊本地震(前震)が起きた。二日後には二度目の巨大な地震(本震)に襲われ、多大な被害を受けた。
四年前のブログを眺めてみると二件の記事を書いているが、その日の内には地震には触れていない。
翌日からのブログでは、毎日熊本の地震の被害状況を発信した。数日、夜は車中生活をしたし、毎日朝昼夕、食事の配給に並び、給水車に水を求めて並んだ。
風呂に入れぬ、トイレが使えぬ、ガスが使えない不自由さを約一ヶ月体験した。
奥方が走り回り、一か月後現在のAPに何とか入居することができた。私も齢を重ね、今一度の転居は荷が重くここが終の棲家となりそうである。

 コロナ禍は熊本でも30人の感染者が出ている。毎日鬱陶しいことだが、まだ地震の時に比べると気持ちにも余裕があるように思える。
コロナ禍で慰霊式なども細やかのものとなり、亡くなられた方々には申し訳ない仕儀となっている。
「地震後県民の絆が深まった。その絆をもってこのコロナ禍を乗り越えよう」とは、知事の弁である。
いかにも政府の対応のまずさが目に付くが、早期終息を目指すために、今何を為すべきかを真剣に考えてほしい。
アベノマスクはいらない。賢明な国民は自らマスクを作って、危機を乗り越えようとしている。
地震の辛さを経験し、乗り越えた人たちは強い。

熊本は鎮魂の一両日を過ごすことになる。

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■細川小倉藩(201)寛永四年・日帳(二月十二日)

2020-04-14 08:57:37 | 細川家譜
                       (寛永四年ニ月)十二日

         |

         |    十二日  奥村少兵衛
         |
金森重頼飛脚へ銀 |一、金守出雲様ゟ之御飛脚両人ニ、銀子壱枚宛遣、出雲様ゟノ御音信物・御文箱請取置候間、式ア少
子ヲ給ス     |  殿ゟ、出雲様御内佐賀野八郎右衛門■方迄、御状被遣候、右ノ御飛脚ニ銀子被遣、御使ハ歩之御
         |  小姓野村次右衛門、
         |                   (長門豊浦郡)下関・彦島
松井興長放鷹   |一、式ア少殿今日ひより能候間、むかへのひく嶋へ鷹つかい二参候間、可得其意由、西村太兵衛を以

         |       (田中氏次)  
         |  被仰越候、兵庫非番ニ付、其通兵庫ニも可申聞通、返事仕候事、
         |
         |         ■彦島のいわれについて(彦島神社御由緒から引用)
                    彦島という地名は、その昔に日本書紀の仲哀記に「引島」とある。
                    歌人源俊頼朝臣(1124~?)の「袖中妙」(しうちゅうしょう)にも「ひくしま」と読んでいる。
                    吾妻鏡に初めて「彦島」とあり、源平盛衰記に「長門の国彦島という所に城を構えたりこれをば引島と
                    も名づけたり」とあって「彦島」とも「引島」ともいっている。

                    島は一時豊前領であったが、元和六年(1620)長府藩主毛利秀元と小倉城主小笠原忠政の協議によって
                    長府領であった「門司」と小倉領であった「引島」とを交換したともいわれ、その後、文久年間に毛利藩主は
                    「引」は 武事に忌むとして「彦島」に改められた。
                   元和六年当時は小倉藩主は細川家であり、この説明には違和感がある)

         |  (周防熊毛郡)
忠利旅中ヨリ三斎 |一、上ノ関ゟ、 越中様 三斎様へ被進之候 御文箱、幷このわたの入申たる箱壱つ、中津へ持せ、
へ音信      |                                        (政時)
         |  差上候処ニ、則 三斎様ゟ 御返事出、便宜次第江戸へ可差上旨、長舟十右衛門・貴田権内方ゟ
江戸ノ段     |  申被越候、則 御文箱江戸ノ段二入置候、便宜次第可差上候事、
三斎へ黒木進上  |一、従越中様 三斎様へ被進之くろ木五拾束、つミ遣候ニ付、御奉行ニ歩之御小姓藤井宇左衛門申付
         |  遣候事、
中津造作銀ノ算用 |一、中神與兵衛、中津造作銀御算用之儀ニ付、今日被罷越候事、
         |                  (辰珍)
武藤普庵返進ノ大 |一、あわゟ金子大判弐枚、普庵方ゟ津川四郎右衛門尉殿迄参候を、御奉行衆へ被成御渡候処ニ、又此
判ヲ復返ス    |  金子ハあわへ戻候ハて不叶儀候間、戻可申由ニて、津川四郎右衛門尉殿へ相渡候事、
         |
蜂須賀家使者金森 |一、小早ノ御船頭中靏弥吉舟ニ、あわゟノ御使者上下三人、幷金森出雲様ゟノ御飛脚両人のせ上せ申
         |                    (直正)
重頼飛脚ヲ小早ニ |  候ニ、京・大坂へ之書状差上申候、又寺本八左衛門ゟ寺嶋主水方へ遣候銀子一袋、五百五十め之
テ上ス      |  由ニて、右之御船頭ニ渡上せ申候、
         |          銀子一堤五百五十め之由ニて請取申候、大坂ニて                                   (抹消セリ)(黒印)
         |           寺島主水方へ相渡、請取切手取下可申候、以上   中靏弥吉「(花押、〇)」
         |

女門ノ出入切手  |一、飯田才兵衛与之衆不残書付、御留守ニ被罷届候衆之分、御門女之出入切手可有御出通、住江甚兵
         |  衛・高田九郎右衛門方へ申遣候也、
         |

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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(27)

2020-04-14 06:56:19 | 史料

          

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