散歩の途中、「すぎな」が沢山出ていることに気づきました。ならばと思い注意してみていると「つくし」を三本発見スマートホンで撮影しました。
「つくし=土筆」と書きますが、誰がかんがえたのか見事な字を当てましたね~。膝が痛くて座り込めず、やや上から目線の撮影になりました。
(寛永四年ニ月)十五・六日
| 十五日 奥村少兵衛
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家老奉行等相談 |一、御家老衆三人、米田與右衛門殿、御奉行衆御本丸ニて御相談候、中津郡大村弥右衛門手永ノ乃美
乃美景嘉ノ百姓借 | 主水百性ノかり候種子米出入之儀、佐方少左衛門・蓑田甚丞ニ御尋候、又築城郡伝法寺村之左兵
入ノ種子米出入 | 衛儀、塩木又丞ニ御尋候而、則左兵衛儀ハ町籠ニ御入候事、
百姓ヲ町牢ニ入ル |
豊後横目等別府ニ |一、豊後御横目衆別苻へ御越ニ付、御樽・御菓子被進之候ニ、式ア殿ゟ御茶を相添被進之可然由ニ
赴クニ付音信物 | 而、式ア殿ノ御茶ヲ被差上、則別苻へ明日可遣ニ相定候事
松井興長ヨリ茶ヲ |
添進ム |
釣瓶強奪 |一、吉山福万くミ被申井戸ノつるべを、御馬やへ取て参候、取返くれ候へと被申候、さたかきり成儀
| を仕候、早々取返可進候由、申渡候事、
|一、釘本三太郎儀、母田川へ引越申候間、召連参度由被申ニ付、可被参由、申渡候事、
|一、築城郡伝法寺ノ左兵衛町籠ニ御入候事
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| 十六日 加来二郎兵衛
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豊後横目ヘノ接待 |一、苻内御横目衆別府へ被成御越候間、御くわし・酒・茶・すいふろ以下持せ可遣候、宇野七右衛
| 門所ゟ被申越ニ付、則右何も御遣申候、但、茶ハ式ア殿ゟ被遣候事、
三斎へ進上ノ黒木 |一、三斎様へ被進候黒木五十束、此比運賃舟ニ積候へ共、遅出船候ニ付、御小早仕立、今日歩ノ御小
| (貴田政時)
| 性藤井宇左衛門奉行として付遣候、勿論十右衛門・権内所へ之書状、両人ゟ遣候事、
|一、深野二郎右衛門煩故、薬用申候ニ付、登城不仕候由、使被差上候事、
数矢制作用鳥羽 |一、御数矢はき申御用ニ、わなニて鳥を取せ可申との 御印、去年被成御出候ニ付、 御印ハ此方ニ
罠ニテ鳥ヲ捕ラシ | きりかミ
ム御印切紙ヲ規矩 | 取置き候、郡中ニて取せ可被申由ニて、五枚調、平井五郎兵衛・小崎與次兵衛両人宛遣候を、安
郡奉行へ遣ス | 場仁左衛門方へ相渡候時、慥被請取との判形取置候へ共、其判形いつれニ在之哉、見失申候ニ
切手ノ請取ヲ紛失 | 付、只今取替不申候、其ニ付、此方ゟ右ニ出申候きりかミ五枚、御奉行衆両人ノ判形をけし候
ス | て、又安場二左衛門方へ相渡申候、重而、去年被請取候との判形見出次第、けし可申由、約束申
| 候、当年ハからすとり不申由ニ付、如此候事、
|(追記) (武次)
江戸ヨリ飛脚 |「一、江戸ゟ使ニ、牧丞太夫与白木八兵衛・国友半右衛門与野上市太夫、右弐人当月四日ニ江戸を
| (上
| 立、同十二日ニ江戸大坂ニ着、則御小早ニ乗下候由、 殿様ニハ十一日ノ夜ノ八つ時ニ、京ノしよ
| 路)
| ろニて懸 御目、書状共上ヶ申由、申候事、 」
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随分前のことだが、御先祖様が「組頭」の職にあったと仰る方から、その職務が如何なるものだろうかとの質問をいただいたことが有った。
今般「熊本縣史料・中世編Ⅱ」に「組頭心得寫」というものを見出し、ようやく回答申し上げることができる事となった。
6組の「御備組」は最前線で戦闘員として働く、その1組の構成が上記の図である。同様に殿様にそばにあってお守する「御側組」、又留守の御城を守る「御留守居組」で構成されている。
番頭の下に12組600人のお番方が付属し、組頭は約50人程の小隊を率いていることが判る。
家老等 十二人 廿二人 六百人・十二組
○備頭------+--番頭------組頭-----番方
| 五十人 千百八拾餘人
+--鉄炮頭----小頭------------------足軽
| 十四人
+--副頭
| 二人 四百三十人・十二組
+--長柄頭---------------------------足軽
| 六人 又小荷駄奉行トモ云フ
+--物奉行
その「組頭心得」が以下のようなものである。但し、平時における「組頭」の職務についてはいまだ資料を見出さない。