細川家家臣としての沼田家は細川幽齋室・麝香の兄・延清を初代としている。
二代目は四男・延元であるが、これは長兄・藤左衛門が福知山攻めで戦死、次兄は浅野長政に仕えて高麗陣で戦死、三兄は僧籍に入った故である。
大変剛毅な性格だったらしく、「沼田家記」ではその逸話がいくつも紹介されている。
叔母が幽齋夫人であることから、忠興とは従兄弟の間柄であり、そのことが彼の人間形成に大きく影響を与えていることもうかがえる。そんな延元が忠興から難題を持ち掛けられ大いに抵抗している。
それは忠興側室を内室にせよという命である。この人は真下七兵衛の妹とも娘ともされる人物だが、忠興との間に「岩千代」を成している。のちの松井寄之である。
沼田家記によると、慶長17年(1612)に内室が病死している。それから6年後(元和4年)の話である。
岩千代は元和2年の生まれだから2年後の話である。俗にいうおさげ渡しだが、忠興の心中は測りがたいがなんとも不可思議な話である。
切腹をも覚悟したとされるから、強硬な話であったのだろう。忠利が必死の説得をしたことが伺える。
しかしながら延元は寛永元年(1624)に死去するから、6年間の短い夫婦生活であった。
後室・永寿院のお墓が沼田家墓地(安国寺)に存在するのかどうか、いつか確認してみたいと思っている。
一同(慶長)十七年九月御内室様御病死被成候 号大陽院殿
冨小路左衛門殿と申候公卿之御娘延元様御母公ニ而御座候叓
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一同年(元和四年)の秋 忠興様御下向被成候而 北之丸様を 延元様
御内室に可被遣と被仰出候得とも 延元様御同心無御座候
御内證にて色々御異見等御座候得共切腹被仰付候得共
此儀御請被成間敷との儀に御座候 其時分 忠利様ハ
内記様と申中津に被成御座候 延元様と御挨拶能御座候
〇内記様と申仲津ゟ夜遠シに小倉江被成御越直ニ
に付〇延元様へ被遊御出種々様々に御扱御異見被遊
貴殿切腹於被致は我等介錯可致候 其段に成候儀ハ無是非
思召候間如何様に候ても此儀御同心可被成候 無左候ハヽ
中津へ御帰不被成候間御感涙にて被成御意候に付て無據
御請被仰上 忠利様もご満足被成被遊御帰候 左候而其
暮か翌年か御祝言御座候叓 北之丸様後に号永寿院殿