津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■司馬遼太郎と「城址を歩く‐熊本城」

2021-02-12 16:20:10 | 歴史

 Youtubeに最近  城址を歩く「熊本城」 がUPされていることに気づいた。
ナレーションはNHKアナだと思われるし、その内容は司馬遼太郎の「徒ぶが如く」や「春灯雑記」が引用されていて中々重厚である。
シリーズものらしく城址を歩くと打ち込むと、全国の御城が見られるようだ。
ちなみに熊本城についても他に多くの映像が紹介されている。ここではその一部を下にご紹介する。
コロナ禍の中家に籠っておられる方には一見をお勧めする。

天下の三名城 熊本城を歩く~① 宇土櫓編

熊本城「空中回廊」を歩く

名城紀行~熊本城を歩く② 武者返し編

 
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■明智光秀に味方した若狭武田家とその後の若狭衆

2021-02-12 12:29:42 | 展覧会

昨日Yahooで配信されたサライ・JPの記事「本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城」は大変興味深いものであった。
私のサイト内に、特に「細川家中の若狭衆」を設けているように、多くの若狭武田家の人たちが細川家に召出されている。
先祖附その他から現在15人の方々を確認している。あの沢村吉重もその一人である。西川与助の足軽となり、10,000石の大身に上り詰めた。

それは6代信豊の弟・信高に幽齋女・宮川が嫁いでおり、その男子で京都の建仁寺長老の永甫英雄が力したとされる。
そして細川家と明智家のかかわりが何と深いことかと感じざるを得ない。

大変興味深いのは、信高の孫にあたる信秋のお墓が高森の含蔵寺にあるということである。
どういう切っ掛けで熊本へ来られたのか、又は御子孫がお墓を建てられたのか?
NHKアナウンサー武田氏や、茶道肥後古流家元武田家との関係もうかがわれる。

            五代
     武田元光---+--元度
          | 六代   七代  八代(絶)
          +--信豊---+--義統---元明
          |    |
          |    +--元実
          |       ↓
          |      大和守  山城守
          +--信高---+==元実---信秋 墓所:高森含蔵寺
               |
               +--永甫英雄(京都建仁寺長老)
                 母・細川幽齋姉・宮川殿

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■細川小倉藩(487)寛永七年・日帳(四月十日~十ニ日)

2021-02-12 06:25:32 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年四月)十日~十二

         |                        
         |    十日  安東九兵衛
         |
田川ヨリ早松茸等 |一、田川ゟ、松茸拾五本・椎茸・松なば参候也、
上ル       |
信通ヲ北ノ丸ノ数 |一、今朝ハ北ノ御丸にて、彦四郎様を御数寄被成候事、
寄ニ招ク     |
信通ト長池ニ遊ブ |一、彦四郎様御同道にて、長池へ御懇ニ被成御座候也、
         |一、宮木五郎助、此中相煩候へとも、快気仕候由にて、登城被仕候也、
豊岡甚丞快気登城 |一、豊岡甚丞、煩快気仕由にて、登城被仕候也、
宮部某弟危篤ニツ |一、宮部権十郎被申候ハ、弟又市煩三/\にて、取詰申候、今之分ニ御座候は、頓而相究可申と存
喜看病ヲ願ウ   |  候、其内ハ付居申候て、養生仕度と被申候間、其分ニ被仕候へと、申渡候事、
本丸ノ馬ヲ今日ハ |一、上田忠左衛門登城にて被申候は、御本丸御馬ノ分は、今日は草ニ付可申由、被仰付候由、被申候也、
草につく     |

         |                        
         |    十一日  奥村少兵衛
         |
         |    (有吉英貴)
有吉英貴邸ニ臨ム |一、今朝、頼母佐殿へ御申被仕候事、
         |
藍嶋ヨリ走リシ牢 |一、あいノ嶋ニ居候て、走申候牢人善兵衛と申候、右ノ善兵衛嶋ニ有付申候時、七兵衛と申弟をしち
人弟ハ質分ニ小倉 |  分ニ小倉ニ召置申候、七兵衛儀ハ御乗物かき仕居申候、母も妻子も御座候由、石原仁右衛門尉
ニ置カシム    |  申候事
乗物舁      |

         |                        
         |    十二日  安東九兵衛
         |                    ( 衍 )
信通ヲ朝本丸ニ饗 |一、彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞被成候也、
ス        |
         |     三斎様ノ  両人                         (松野親英)(町)
三斎書状忠利宛  |一、江戸ゟ〇御飛脚 忠利様へ被進ノ御文箱持、罷下候、幷織ア・三右衛門尉言上之状壱つ、同前ニ
飛脚ノ旅程    |  御前上申候、御飛脚は直ニ中津へ参候由申候、江戸を今月三日ニ罷立候由、申候也、
目出度飛脚トシテ |  右ノ御飛脚目出度御飛脚ニ参候とて、両人ニ御銀子壱枚宛被為拝領候、御飛脚ノ名貴田半左衛
銀子ヲ与ウ    |  門与御長柄衆自次左衛門・小右衛門也、
         |               (小笠原長元)
信通同道小笠原長 |一、今晩彦四郎様被成御同道候而、備前殿御成候也
元邸ニ臨ム    |
         |  (鏡)
宇治へ茶壺ヲ遣ス |一、加々見善右衛門尉ニ申渡候は、近日御茶壺を宇治へ被遣候間、御舟可申付旨申渡候、幷金守形右衛
         |  門尉江戸へ御使者ニ御上せ被成候間、右ノ壺舟ニのせ候而、上せ可申旨 御意候間、可被得其意
         |  由、申渡候也、
江戸ヨリ飛脚   |一、永や二郎介・田中兵庫助与高見吉右衛門・国友半右衛門与野上市太夫、江戸ゟ罷下候、江戸を三
江戸ヨリ書状ノ覚 |  月廿日ニ、御鉄炮衆両人江戸を出申候由、二郎介ハ廿一日ニ江戸を出申由候、二郎介持下被申
         |  御書之覚
         |  一、三斎様ゟ 殿様江之御返書一つ、
         |   (細川興孝)
         |  一、御天様ゟ 殿様江之御返書一つ、
         |     (氏銕)         
         |  一、戸田左門様ゟ之御状、寺嶋ゟ請取下由にて一通、
         |  右ハ二郎介被持下、
         |  一、言上ノ状文箱一つ、織ア・三右衛門ゟ参候、
         |  是は右は、江戸廿日ニ出申候両人ノ御鉄炮衆持下、
         |  〃〃
         |            (細川光尚)                             (小野)   (佐藤)
光尚用ノ茶壺   |  一、右ノ御鉄炮衆ニハ 御六様御つほ壱つさい料被 仰付、京迄持上り、九右衛門・少左衛門ニ渡
         |    申由、申候事、
         |         (皆川)
         |  右之 御書共、治アを以上申候事、

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