日帳(寛永七年四月)十八日~廿日
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| 十八日 安東九兵衛
笋 |
箏ヲ稲葉信通宿ニ |一、竹ノ子拾本、 彦四郎様御やとにて御前御上り被成候間、御料理のためニ、御掃除の者ニ持せ遣、
遣ス | 小堀長左衛門尉ニ渡させ候也、
竹内長助知行ノ書 |一、竹内長助御知行拝領仕候由にて、御書出シ持来被申候、知行所は田川郡川崎村・池尻村両所にて
出ヲ持参ス | 百五拾石也、
財津惣兵衛等忌名 |一、財津惣兵衛・同市兵衛、親惣左衛門尉忌中明候由にて、登城被仕候也、
登城ス |
| (乗栄)
信通同道清田乗栄 |一、今晩 彦四郎様被成同道候而、清田七助所へ御成候也、
邸ニ臨ム |
京銭二十貫文調達 |一、京銭弐拾貫文調可被下由にて、上垣京右衛・野口久五郎ゟ、寺嶋へ差帋上せ申候ニ付、追而ノ
ヲ寺嶋主水へ命ズ | 書状相調、岡田茂兵衛ニ渡候也、但、使者御船頭小野又左衛門、御奉行所ニ参候ニ付而、此者ニ
| 言伝、茂兵衛ニ慥ニ相渡候へ之由、申渡候也、
| 忠利愛宕山時代の学友、殉死
江戸蔵本預米ノ出 |一、江戸御蔵本高木忠右衛門尉手前預米の出入ニ付、吟味仕候へ之由にて、田中以徳へ渡候切手ノ
入ノ吟味 | 覚
| 一、四百三拾石ノ米の預状壱つ、但、忠右衛門切手、
| 一、高木忠右衛門尉手前、寛永元年ゟ明ル二年五月五日まて忠右衛門手前請込候御米ノ払不残済候
| との、深野左助・保利與兵衛・高原茂兵衛・古内山助左衛門ゟノ書物壱つ、
| 一、寛永元年四月ゟ明ル五月六日まての、御米・大つ・小豆少茂無滞被払候との書物壱つ、忠右衛
| 門尉ニ当ル有田次兵衛・豊嶋源右衛門書物也、
| 右三つ以徳ニ渡候事、
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| 十九日 加来二郎兵衛
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|一、昨夜半時分ニ、江戸ゟ御飛脚二人参候、壱人ハ御長柄ノ久次・壱人ハ御小人市蔵と申者也、
| (通春)
久留嶋通春使者ニ |一、来嶋越後殿ゟ使者被参候、但、歩之衆と見へ申候間、御宿奉行ニ歩之御小性衆加申付由、住江甚
宿奉行ヲ付ク | (喜)
| 兵衛ゟ被申越ニ付、則真下木左衛門ニ申渡、遣候也、御道服壱つ被遣候也、
| (ママ)
藪道儀大破ノ家ノ |一、藪道蟻ゟ、豊岡甚丞を以被申越候は、道儀屋敷之内ニかや家壱軒、又道儀被居候いたや壱軒在之
改造ヲ願フ | 候、かや家ニは助右衛門と申ものニかし置申候へとも、今ほと彼者居不申候、又人ニかし申候儀
| は火用心かた/\悪敷御座候、左様ニ御座候ヘハ、道儀被居候家茂以外大破ニ及申候間、右ノか
| (塀)
| や家をこほし、其道具にて道儀家を繕、同屋敷ノ内にて御座候間、屏を仕廻シ候て居申度由、被申
| 候、此方ゟ申候は、同屋敷ノ内にて御座候而、屏なと仕廻御座候は、くるしかるましき由、返事候也、
| 小崎四郎左衛門、膳所へ被遣
江戸膳所へ飛脚 |一、今日、江戸へ被遣〇御飛脚乗せ上り申御船頭ハ河村喜左衛門尉、
稲葉信通同道西ノ |一、今日八つ時分ゟ、彦四郎様被成御同道、西ノ御茶やへ被成御座、彼地にて夕御膳上ル、酉之下刻
茶屋ニ遊ブ | ニ被成御帰城候也、
|一、菅沼小隼人かたへ被遣御文箱、御小人ノ弥左衛門与作左衛門ニ相渡候事、
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| 廿日 奥村少兵衛
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|一、江戸へ小崎四郎左衛門尉被遣、今日出船被仕候、江戸御留守居衆へ我等ともゟ遣候書状、四郎左
| 衛門尉ニ持せ遣、渡候事、
西ノ溜池ニ放セシ |一、西ノため池ニ御はなし被成候鴈壱つ、死申由ニ而持参仕候事、但、花ノ坊持参也、
雁死ス |
| (元高)
忠利信通ヲ同道氏 |一、今晩、氏家志摩守殿へ御成候、但、彦四郎様御同道也、
家元高邸ニ臨ム |