津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三間跡じさり

2021-02-05 15:23:27 | 歴史

 細川光尚は最後の参勤にあたって、初めて中老(のちの家老職)を伴っている。長岡(沼田)勘解由である。
その在府中の慶安2年11月24日に光尚の母・保寿院が亡くなるが、これを追うようにその年の暮れ28日に光尚も32歳という若さで逝去した。6歳の世子六丸が遺された。
見舞いに訪れた幕府の使者に対し、光尚は領地返上を申し出ている。死去の一報と共にこのことは国本に驚きをもって迎えられた。光尚の病状の悪化に伴い、国老松井興長はまずは、養嗣子・寄之(袰川忠興六男)を江戸へ遣わした。また松井興長と沢村宇右衛門の二人参府の報が勘解由のもとに届くと、勘解由は大いに驚き早飛脚を以て、それぞれの江戸入りを止めるべく手配をしている。これは光尚の叔父にあたる豊前の小笠原家(知音衆と記す)の助言であったらしい。
すでに出発していた寄之・宇右衛門のふたりは飛脚の報により、寄之は江戸入りを扣え戸塚で待機、宇右衛門は金屋(金谷宿)から引き返した。
興長は参府を断念している。
光尚の死後、肥後54萬石の処遇は幕府内に於いても議論がなされているが、ここで引用している資料「沼田家家記」では全く触れていない。

幕府からどのような裁定が下されるのか、中陰を過ぎても結果はもたらされず、江戸・国許においても沈鬱な空気が流れている。二分割や三分割案が有ったとされるが、そのような不安な情報も国許には洩れもたらされていたのだろう。
そんな中勘解由は沢村大学が記すところの「三斎様御忠節之覚書」を幕府に提出した。
徳川家に対する代々の忠節がゆるぎないものであったことに再認識を求めようとしたのであろう。
沼田家家記はこの後、幕府からの呼び出しがあったと記している。

江戸城に沼田勘解由と松井寄之が呼ばれた。老中や関係役人列座の中で六丸(綱利)への遺領相続が申し渡された。
その場所が何処であったのかは記されていない。勘解由(延之48歳)、寄之はわずかに15歳である。

その時二人は、三間跡じさり(5.4mほど)して、落涙のうちに無言で平伏し続けたと記されている。
その有様は同座する人々も感動するとともに、後日細川家を訪れる人々が口々にその有様を賞賛したと記している。

延之の父延元は、忠興から側室で寄之の生母であった人を後室とするように命じられている。
延元は切腹を命じられてもお受けできないとする中、忠利が延元の許を訪れ、そうなれば自らが介錯を勤めるが、なにとぞ翻意するようにと説得に努めている。
これが効をそうし延元は忠興側室であった人を後室とした。真下元重の妹とも娘ともいわれる人である。
つまり寄之と沼田延之は義兄弟という関係である。
不思議なめぐりあわせの二人が、六丸の遺跡相続に当り苦闘した有様がこの「沼田家家記」に記されていた。
                                             

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■細川小倉藩(480)寛永七年・日帳(三月十七日~十八日)

2021-02-05 07:06:25 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年三月)十七日~十八日

         |                        
         |    十七日  加来二郎兵衛
         |
         |   (信通)忠利妹多羅の子                            
(屋脱)
稲葉信通近日来訪 |一、稲葉彦四郎様近日被成御越候、亭主之有之所は御六ケ敷可有之と被 思召候間、東之御茶をこし
ノ予定      |                (ママ)
信通ノ宿所ヲ東ノ |  らへ可申候、御馬下々居申所ハ、樒柑いけ置候処を式ア少見斗、作事可申付候由事、高見猪介を
茶屋ニ設ク 家臣 |                                      〃
等ノ居所ノ作事ヲ |  以被 仰出候、猪介式ア殿へ被参候事、
松井興長ニ命ズ  |
         | (波多道仲)(薗田道各)
道仲道各下向ニツ |一、道中・道角頓而可罷下候、左候ハヽ、阿心被 召置候御客屋ニ可被召置候、賄道具已下前かとゟ
キ客屋ヲ整備セシ |  可調置由、右同人を以被 仰出候事、
ム        |
         |   (正俊)
久貝正俊等へ音信 |一、久貝稲葉様へ 御文箱被進之候、其外そうめん箱弐・ふりしほ引箱壱つ被進之候、牛嶋一郎右衛
         |  門ニ渡申候、又我等供ゟ、寺嶋所ヘノ状共渡申候事、又多我不動院へ御書、同前ニ相渡候也、
江戸ヨリ飛脚下着 |一、江戸ゟ、谷忠兵衛与元田伝右衛門・御給知取修理与中河久兵衛、二人罷下候、江戸を今月五日ノ
ノ旅程      |  ひる過ニ出申由、大坂ニハ十二日ノ子之刻ニ着、同夜牛ノ刻ニ出船仕由、御小早船頭中津留弥吉
         |  舩にて下ル也、
曲事ニヨリ小人ヲ |一、御小人之弥兵衛、曲事御座候而、今晩しちへやへ御入被成候間、下業切手遣可申通、伊退七郎右
質部屋へ入ル二下 |  衛門尉申来候事、
行切手ヲ遣ス   |

         |                        
         |    十八日  奥村少兵衛
         |
細川出雲出府ニ舎 |一、細川七左衛門殿御舎兄出雲殿、江戸へ御通候ニ付而、七左衛門殿へ御寄候、乍次而、御目見え仕
弟七左衛門ヲ訪ヌ |  度と被仰上ニ付而、則被成御相候、出雲殿進物ハもうせん十枚・靏壱つ 上被申候処、
序ヲ以テ忠利ニ面 |  (沼田延之)
会ス       |  勘解由殿ゟ上り申御腰物壱つ、被遣候事、
         |         (高政)
村井内蔵助毛利高 |一、村井内蔵助、毛利摂津守様へ御使ニ被参、鞍二口拝領被仕通、被申候事、
政へ使ス     |
         |  (義成)
宗義成出府ニ続敦 |一、対馬守様江戸へ御通ニ付、続平右衛門御小早ニ而、御使者ニ被遣、諸白弐樽・生鯛拾枚・鰤塩引
行応接ノ使ス   |  すまき五つ、被進之候也、
鉄炮足軽ノ欠員補 |一、御鉄炮衆、かけ人之分、抱可被申通、申渡候事、
充ノ命      |
送主不明ノ躑躅宿 |一、いつかたよりやらん、送状も無之つゝじ壱本、宿送にて持来候を、其段申上候ヘハ、請取、うへ
送ニテ来ル    |  させ置可申旨、被 仰出ニ付而、西ノ御花畠ニうへさせ置申候事
横井作左衛門ヨリ |一、横井作左衛門ゟ飛脚被差上候、進物ニハつめうち刀弐枚・包丁弐枚、又小刀十本上被申候、いつ
鷹ノ爪打刀等ヲ贈 |  ものことく飛脚ニ何にても遣可申旨、被 仰出ニ付而、料足弐貫文遣申候事、
ラル       |
         | 但、ふたへ事 (四株)  (黒原村、規矩郡)
二重咲ノ白躑躅  |一、白つゝじしかぶ、くろはるへ送夫ニ而、何方共不知、小倉へ遣候へと申、参候由に而持参候を、
         |   (長氏)
         |  平野九郎右衛門を以、得 御意候ヘハ、請取置候へと被 仰出候由に付、うへ所茂不被 仰出
         |                 (甚介)
         |  付、御掃地之宇兵衛ニ申付候而、上林所へ遣候而、西之御花畠へうへ置候へと申付、遣候事、
         |                           (皆川)
江戸ヨリノ熊皮  |一、江戸ゟ御荒仕子替弐人、三郎・孫三郎持参候熊皮一枚、治ア二相渡候事、  

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