細川光尚は最後の参勤にあたって、初めて中老(のちの家老職)を伴っている。長岡(沼田)勘解由である。
その在府中の慶安2年11月24日に光尚の母・保寿院が亡くなるが、これを追うようにその年の暮れ28日に光尚も32歳という若さで逝去した。6歳の世子六丸が遺された。
見舞いに訪れた幕府の使者に対し、光尚は領地返上を申し出ている。死去の一報と共にこのことは国本に驚きをもって迎えられた。光尚の病状の悪化に伴い、国老松井興長はまずは、養嗣子・寄之(袰川忠興六男)を江戸へ遣わした。また松井興長と沢村宇右衛門の二人参府の報が勘解由のもとに届くと、勘解由は大いに驚き早飛脚を以て、それぞれの江戸入りを止めるべく手配をしている。これは光尚の叔父にあたる豊前の小笠原家(知音衆と記す)の助言であったらしい。
すでに出発していた寄之・宇右衛門のふたりは飛脚の報により、寄之は江戸入りを扣え戸塚で待機、宇右衛門は金屋(金谷宿)から引き返した。
興長は参府を断念している。
光尚の死後、肥後54萬石の処遇は幕府内に於いても議論がなされているが、ここで引用している資料「沼田家家記」では全く触れていない。
幕府からどのような裁定が下されるのか、中陰を過ぎても結果はもたらされず、江戸・国許においても沈鬱な空気が流れている。二分割や三分割案が有ったとされるが、そのような不安な情報も国許には洩れもたらされていたのだろう。
そんな中勘解由は沢村大学が記すところの「三斎様御忠節之覚書」を幕府に提出した。
徳川家に対する代々の忠節がゆるぎないものであったことに再認識を求めようとしたのであろう。
沼田家家記はこの後、幕府からの呼び出しがあったと記している。
江戸城に沼田勘解由と松井寄之が呼ばれた。老中や関係役人列座の中で六丸(綱利)への遺領相続が申し渡された。
その場所が何処であったのかは記されていない。勘解由(延之48歳)、寄之はわずかに15歳である。
その時二人は、三間跡じさり(5.4mほど)して、落涙のうちに無言で平伏し続けたと記されている。
その有様は同座する人々も感動するとともに、後日細川家を訪れる人々が口々にその有様を賞賛したと記している。
延之の父延元は、忠興から側室で寄之の生母であった人を後室とするように命じられている。
延元は切腹を命じられてもお受けできないとする中、忠利が延元の許を訪れ、そうなれば自らが介錯を勤めるが、なにとぞ翻意するようにと説得に努めている。
これが効をそうし延元は忠興側室であった人を後室とした。真下元重の妹とも娘ともいわれる人である。
つまり寄之と沼田延之は義兄弟という関係である。
不思議なめぐりあわせの二人が、六丸の遺跡相続に当り苦闘した有様がこの「沼田家家記」に記されていた。