高祖父・上田久兵衛の書簡を読むと、「上通」という言葉が度々登場している。京都留守居をしていたころの書簡には、度々のように「上通によろしく」等とある。
「上通」とは久兵衛の奥方の実家・沼田家(分家)の事で、屋敷が上通筋にあった事に由来する。
上通から歩小路に入る右角に位置する。この敷地は数件の店舗と130年の歴史があるMホテルがある。
もう地元では周知の事だからM=丸子ホテルであると明かしても良いだろう。
コロナ禍の中で、客足は8割減になったという。修学旅行などの団体客が多かったようで、大いなるダメージとなったのだろう。
現在では「歩小路」といえば小洒落た飲み屋さんなどが多くみられ、若い人たちには人気の街である。
かっては「歩之者」が住む長屋が立ち並んだ街であった。まだ古い木造家屋も見られるが、うまく改造をして雰囲気ある御見せも見られる。
突き抜けると国道3号線、道向こうは中央警察署である。
日帳(寛永七年五月)廿四日~廿七日
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| 廿四日 安東九兵衛
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| (鏡)
|一、加々見善右衛門尉被申候ハ、御船頭原茂介、昨日病死仕由、被申候事、
上方出家等ノ迎船 |一、今度御出家衆御迎舟、五十丁立弐そう・十たんほ一そう・四丁立小早一そう、此分上せ申候由、
| 加々見善右衛門・白井兵介被申候事、
| (規矩郡)
瓜 |一、修理ヨ渡辺う兵衛、黒原まて状持せ遣、但、うりノ儀に付、遣候状也、
判はんじ久兵衛 |一、判はんじ久兵衛参候事、
もめん鞦変色ス |一、小林久介被申候ハ、もめんしりがい大分被 仰付候、御納戸衆被請取候所ニ、百ノ内にて三ケ
不良品ハしま屋ニ | 一ほとも色かハり申候ニ付、悪敷分ハしまやニ返し、仕直させ申候、当津にてハかやうニ申付
仕直サシム | (干 懸)
| 候、江戸・上方へ持せ被成候時、色かハり申候は以外ニ御座候、干かけと被 仰付候へ共、先
| 出来候分ハ其分、残分ハ御持せ被成間敷やと、被申候事、
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|一、井浅無風、清水寺ニ着、田山ニ届ニ付、呼せ候也、則書也
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| 廿五日 加来次郎兵衛
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|一、今朝、夜明ゟ雨ふり申候也、
遠坂某等紀州へ使 |一、遠坂四郎三郎・藤井権兵衛両人、今日紀州へ参候由、被申候事、
ス |
求菩提山ヨリ光尚 |一、求菩提山ゟ 御六様御祈祷之御札之由ニ而、中坊持参被仕候、林隠岐ニ被請取置候へと、申渡候事、
ノ祈祷札ヲ上グ |
|一、京都へ御使ニ被遣候御鉄炮衆、佐分利兵太夫与礒井勘十郎罷下候、御返書とも式ア少輔殿へ相渡
| 候へと、申渡候事、
柄巻革下ル |一、今日、大坂ゟ御舟下申候、御船頭は岐木九兵衛也、御柄巻革ノ由一箱、又、井上源三郎ゟ上り申
京摂津河内洪水 | さばの由ニて、一箱持下申候、右御船頭申候は、京都ニハ、去廿日・廿一日ニ大水出申候、摂津
淀城内は舟行ス | 国・河内ニハ河端ノ土手堤之分も壱間も無御座候由申候、又淀ノ御城ニハも水つき、城内をかち
| にてもありき申儀不相成、舟ニ而ありき申候由申候、
中間頭病死ス |一、御中間頭與九郎、去ル十九日ニ病死仕候由、山田五郎兵衛申候事、
| ( 狐 釣 )
狐釣某病死ス |一、芦田與兵衛組ノきつねつり竹内勘太夫、是も去ル十九日ニ病死仕由、小頭申候事、
| (智忠親王) (秀成)
生嶋秀成書状 |一、殿様へ、八条様御内生嶋玄蕃ゟ上申状壱通、幷平野権平様ゟ 殿様へ上り申状壱通、式ア殿ゟ持
平野長勝書状 | せ被下候を間、上申候事、
| 〃
| (田川郡)
岩石ニテ松葉採集 |一、岩石へ松葉取ニ遣候御鉄炮衆罷帰申候、松葉を四拾壱俵取、持来候由申候也、
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| 廿六日 奥村少兵衛
| (築)
大坂ヨリ小早下ル |一、大坂ゟ御小早下申候、御船頭ハ井上十右衛門、つき山兵庫ゟ言上ノ文箱壱つ、真下七兵衛ニ当り
ソノ行程四日 | (湘雲守沅)沢村大学の子
| 参候、則七兵衛方へ相渡候へと申渡候、其外沅西堂へ之状とも持下候事、右ノ御舟、大坂を廿三
| 日ニ出舟仕、今日下着候也、
| 右ノ言上、治アを以、我々ゟ上申候事、
| (宇)
鷹師鳬ヲ上グ |一、高橋勘兵衛ゟ、けり壱つ、御鷹ニ取せ申よしにて被上候、則松井う右衛門を以、上ル也、
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| 廿七日 安東九兵衛
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| (曽根、規矩郡)
忠利曽根迄鷹狩ス |一、今日、そねまて御鷹野ニ被成御座候事、
|一、曽根ゟ、夜ニ入、被成御帰城候也、