津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本で床は・・・抜けた

2022-01-03 14:04:04 | 徒然

 大晦日見るでもなくTVの「探偵・ナイトスクープ」の音声を聞いていたら、本の重みに耐えかねて二階の床が抜け落ちたといっている。
これは面白そうだとTVの前に陣取ると、本当に二階の6帖ほどの床が見事に抜けていた。

今年のベスト3を放送していたようだが、このスクープが№2を獲得したというから、ただ物理的な現象ではないようだ。
なんと購入した本の金額は2,000万円ほどになるといい、数十年それが全く読まれることもなく新品のまま保存されていたという。
古本屋さんが驚きながら見積もりをしてみると、一部を残して処分することにして700万円、6時間ほどを懸けて搬出、6トンに及んだという。
700万円で抜けた床を直し、内装を新たにして残した本に初めて目を通したという。

1,300万円の「ー」となったわけだが、ご本人はあまり頓着がなさそうですっきりされている。
吹っ切れたという感じだが、さてこの後本の購入はどうされるのだろうか。

 二階の床が抜け落ちたということは、建築の専門家としては大いに気になる。
運び出した量が6トンに及んだというが、6帖というとほぼ10㎡、1㎡当たりの積載荷重は600㎏になる。
これでは落ちるだろう。建築基準法では、一般の住宅の床の積載荷重は180㎏が規定だから3倍以上に及んでいる。
図書館の床荷重が600㎏で設定されているから、まさに木造床構造の図書館といった状況があった。
多分、中央部で梁が折れ根太が折れ、連鎖的に崩れ落ちたのだろう。ご本人はどこに居られたのか知らないが、命あっての物種である。

 熊本地震の時、本の山の下敷きになった人の話をいくつか聞いたが、床が抜けたり命を亡くしたりした人の話はほとんど聞かない。
「本の下敷きで死ねば本望だよ」という人もいるが、「本で床は抜けるのか」の著者西牟田靖氏の文章を読むと、崩れ落ちた本の山の中で亡くなった某氏が発見されたのは、探し始めて二日目だったとある。
数万冊が崩れ落ちると床は抜けずともこのようになる。

私はといえば、たかだか6~700冊の本と、本の1/2程の要領の資料類に取り囲まれているが、いまだ奥方にしかられながらも本や資料が増殖している。
精々本棚が倒れてきた時のことは頭に入れて置かなければならない。そしてそろそろ本の終活も考えておかなければならない。

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■元旦に知った一つの事実

2022-01-03 07:30:14 | 歴史

 昨年私は細川家家臣であった松宮家の先祖附の解読の依頼を受けた。偶然にお住まいが我が家から至近の処で何度かお会いもしてお話もした。
おばあ様が、先祖は柴田勝家の家来だったと言って居られたらしいが、実際はご先祖様は武田元明の家来であって賤ケ岳の攻撃に親子共々参加し戦死されたら。
まだ小学生の坊ちゃんが大変な歴史好きらしく、そんなことを説明したら「えっ」と驚かれたことであった。
遠祖はウイキペディアでも紹介されている松宮清長(玄蕃)である。
先祖附には次のようにある。

    一私先祖松宮玄蕃丞正勝と申候 若州爪生村前武嶽之城主ニ而御座候 天正十一年(1583)江州於志津嶽戦死仕候
    一松宮右馬允儀玄蕃丞嫡子ニ而御座候 若州天徳寺之城主ニ而御座候 其比和田長者共申候 柴田合戦之砌於志津嶽戦死仕候
    一知行高若州爪生・井ノ口・天徳寺三ケ所ニ而千七百七十石

 私は熊川城主で細川幽齋藤孝の室・麝香の父・沼田光兼が、何故この城を手放すことになったのか、大いなる疑問をもっていた。
このことは■最近知った二つの事実で書いたが、少々誤解があった。
光兼に敵対して玄蕃・左馬允親子が攻め取ったと理解してきたが、今年の元旦、沼田家の系図を何となく眺めていたら、大変なことに気づいた。

 光兼の子・清延に10名の子女の名前が記されているが、二番目の女子が「松宮左馬允久住嫁」と記されていた。
この左馬允は松宮玄蕃正勝(清長)の嫡子だとされる。細川忠興の弟・興元とは相婿ということになる。
先のウイキペディアによると、「元亀元年(1570年)4月22日、織田信長朝倉義景討伐のため越前へ侵攻する際(第一次越前侵攻)、若狭国内の諸将と共に信長を出迎え、熊川城を「若州熊川松宮玄蕃所」として提供する。」とあるところからみると、沼田光兼が永禄三年(1560)に死去し、嫡子光長が永禄八年(1565)には義晴生涯の時戦死しており、熊川城は松宮氏の手に委ねられたとみるべきで有ろう。これらの事は沼田家記に於いても書かれていない。
其の後賤ケ岳攻撃(1587)の際に松宮玄蕃と左馬允親子は共に出陣して戦死し、熊川城の支配も沼田・松宮氏から離れたものと思われる。

 松宮氏は武田元明の没落と共に表舞台から消えているが、時を経て細川家に召し出されることによる。
沼田一族としての事であろうと推測している。

松宮様にもご連絡しようと思っているが、「今年は春から縁起がいいわえ・・」

  熊川城主   同   同        足利義昭臣・戦死
   光建ー光延ー光兼ー+ーー光長
            | 
            |玄蕃允正勝
            | 松宮清長ーー松宮左馬允久住       
            |         ‖
            |      +ーー女

            |      |   幽齋・麝香二男
            |      +ーー女(細川興元・室)
            |      |
            +ーー清延ーー+ーー延元ーー延之・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・沼田家

            |       
            +ーー麝香
                ‖
              細川藤孝(幽齋)

 

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