細川家を勉強していると、鬱陶しくなるような黒歴史にで出会う。
細川藤孝の女婿・一色氏の誅伐、細川興秋の出奔に絡んでいると推測される飯川豊前・長岡肥後父子の誅伐、キリシタン棄教を拒んだ加賀山隼人や、女婿小笠原玄也一族16名の
誅伐事件などである。
そんな中で、加賀山隼人(興良)に関することで永く疑問に思っていたことが、高田重孝氏著「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」でその糸口が見えた。
加賀山氏は「伊丹氏」である。摂津国古曽部郡(現高槻市)の加賀山という地に隠退して、加賀山姓を名乗った。隼人(興良)の父は伊丹朝明である。
私は、ある方から伊丹一族である加藤重徳に関する「系図」(映写本)史料の提供を受けて所持している。
WEBなどでは加賀山隼人は伊丹親興の孫だとするものが多くみられるが、詳細に書かれたこの系図に伊丹朝明の名前は見受けられない。
隼人周辺の系図と伊丹家系図を見比べているうちに、唯一「接点」がみえた。
高田氏の著に「隼人正朝明には三人の男子と一人の女子がいた。」とある。長兄が隼人興良であり、一人の女子というのがルイザもしくはルイスと言い、細川忠興の家臣の
薮内匠市正に嫁いでいた。
薮市正
中村式部少輔一氏に仕、江州日野の内二千九百石領地、後九千石
同伯耆守代様子有之致仕 京都牢人頭 忠興豊前召寄壱万石、のち大隈知行二千石加増
都合壱万二千石 元和五年八月五日歿・八十一歳 (肥後藩・主要系図)
娘壻・長岡主膳信友
慶長十六年・・・御家を被立退候(綿考輯録巻18-P459)
信友ハ織田信雄の二男也、豊前ニ御呼被成、藪内匠か壻ニ被成、妙庵主御卒去後竜王城
御預被置候処、今度御立退、無程公儀ニ被召出、織田出雲守(一ニ出羽守)高長と改、従
四位下侍従ニ叙任、弐万石被下候(以下略)
大和松山藩初代藩主・・四代目以降柏原藩主
ところが加藤家系図からすると、薮市正室は加藤重徳と伊丹親興女・はるとの次女・あやだとされる。
伊丹氏
加藤重徳
‖-------------------次女・あや
伊丹親興ーーー+ーーー次女・はる ‖
| ‖
| 薮市正
| ‖
+ーーー伊丹朝明ーーー+ーーー隼人興良 ‖
| ‖
+--------------ルイザ(ルイス)
隼人興良は伊丹城主親興の孫だとする記述がWEB上で見えるが(ーーー)、伊丹氏(加藤系)系図では確認できない。
そのことからすると、こういう略系図を作ってみると、伊丹城主・親興と伊丹朝明、加賀山隼人父子の関係は、薮市正を通しての婚姻関係でしか見えてこない。
今日は一日、伊丹系図を眺めながら謎解きで時間をつぶすことになる。