津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川興秋は切腹してはいなかったという真実

2022-01-05 11:04:15 | 歴史

 今年の元旦、三宅藤兵衛のご子孫M様から頂戴した年賀状に、「細川興秋(生存説)についてめとめられた書籍をご子孫の方が出版されました」とあった。
早速メールを差し上げたが不通であった。
いろいろ語句を打ち込んで検索してみるがヒットしない。しかしついに「高山右近研究室のブログ」に「 細川興秋 生存説 」400年目の真実( 1 )という記事がある事を発見した。
この記事によると、「全国かくれキリシタン研究会」の会誌29号(2021.5月)に、宮崎県在住の高田重孝氏の同名の論考が発表されているというのだ。
高田重孝氏と言えば、
  天草五和町御領の伝承『細川興秋と專福庵』に関する調査報告
  試論:細川興秋公の大坂の陣以後 【大坂の陣以後の行動についての確定事項と推論】などをWEB上で発表されている。
上記会誌29号によると、氏は熊本県立美術館藏の元和7年 ( 1621 ) 5月21日付の 「長岡与五郎 ( 細川興秋 ) 宛細川忠利 ( 内記 ) 書状 」を取り上げてこの時期細川興秋がまさしく生存していたことを実証しておられる。
興秋が切腹したとされる元和元年 ( 1615 ) から、6年経過している。
これはBIG NEWSだ。これは全容を知りたいと思い、入手方法をさぐった。
いろいろ調べるが会の情報が全く見えない。手がかりはさきの「高山右近研究室のブログ」に会長のご自宅の電話番号があった。
お正月早々ではあったが昨日お電話を入れ、会誌の購入についてお願いした。

「どこでお知りになりましたか?」とのことで、縷々お話申し上げたが、さきのM様のお話はまだ未刊のものであるらしい。
これらの事をまとめられたものが近々発刊されるということのようだ。

この「興秋生存を裏付ける書状の存在」は、まだメディアでも取り上げられていないのではないか。
私がここでこのようなことを書いていいのかとも躊躇するような、極秘の中で刊行が進められているのかもしれない。

 興味がおありの方は、上記「高山右近研究室のブログ」をご覧いただきたい。
二三日後には会誌29号が到着するが、私は氏の御著「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」を購入すべく手配をした。
Amazonの著者のくわしい紹介欄には「小笠原玄也関係のイエズス会史料の中に一六一五年六月六日、大坂の陣の責任を取らされて切腹をしたはずの細川ガラシャ夫人の次男・細川興秋の実在を指摘、細川興秋の天草への一六三五年の避難までの二一年間の追跡調査の論文は『細川興秋の生存に関する史料と状況証拠』と題してキリシタン学界で発表、日本史の定説を覆す最大の発見として認められた。」とあり、私が得た情報が大変遅きに失した事を認識した。
キリシタン学会に発表されたこの論文も是非読んでみたいと思うが、これもWEBでは見つけ出せないでいる。

 随分以前細川護貞さまは、天草の「興秋生存説」を確かめるために当地を尋ねられたが、確証が得られなかったと仰っていた。
今その真実の扉が開かれようとしている。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十五)

2022-01-05 07:08:38 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十五)

・いかばかり舟よそひしてこぎよせむ我が家島と思はましかば

 九州道の記。七月廿一日條「明方を待て舟を出し、家島を漕廻るとて」。家島、播
州播磨郡の海上、家の津の南七海里に在る小嶼。萬葉集巻第十五、

家島は名にこそありけれ海原を吾が戀ひきつる妹もあらなくに

幽齋は、右の古歌と同じやうに感傷的になつたのであつた。「名のみして、我が家島
にてはなきものを」とさびしく思つた。乍併、さすがに凱旋軍の一將だけあつて、け
ちなことは言はない。もしも我が家なりせば、いかに立派に舟を装つて華々しく漕ぎ
歸らんものをと、述懐したのである。

 みなかみ          しかまがは
 水上に幾むらさめか飾磨河にごりは海に出でて來にけり

 九州道の記。さて家島をよそに眺め、姫路の白鷺城を遠望しつつ來ると、「しかま
                         みなかみ
川近きわたり、海の面濁りたるを、船人に尋ねけるに、水上に大雨ふり侍れば、かやう
に有と云」。前夜には月明の海上を航行して來たのであつた。只今も、空は晴れてゐ
るに、この海濤の赤く濁れることよ、と幽齋は不思議の感じをした。播磨川の河口に
近いのである。船頭に訊いて、はじめて、川の吐き出す濁水なること、みなかみの方
に大雨の降つたことを知つた。「濁りは海に出でて來にけり」何といふすばらしい實
景の描寫であらう。この歌は幽齋の傑作にして、同時に當時斯界屈指の絶唱である。
否、古今の和歌中に於いて、見逃してはならぬ一首でもある。「幾むらさめか」播磨
川は古名で、船場川・御祓川・雲見川などの異穪を持つ。神崎郡の山中に發源し、姫
路城の西北を流れ、手柄山の東を過ぎ、播磨湾の西方にて海に注ぐ。川は大ならざれ
ども、幾多の山谷を貫いて來てゐるので、山雨處々に降り、「幾むらさめ」の語が實
によく利いてゐる。第二三句、むらさめがすると、しかま川に詞を懸けてあること勿
論だ。後世、大隈言道の作に、

 見渡せばかつまの沖のひろの海の幾ところかにか時雨ふるらむ

驟雨處々を詠じてこれも立派ではあるが、幽齋の方が一段のすぐてれゐる。〇幽齋の
一首には。萬葉集巻第十五、

わたつみの海に出でたる播磨川にたえむ日にこそ吾が戀やまめ

といふ輕い意味での本歌がある。單純なる敍景、しかも實感の歌にさへ古歌を踏まへ
たところが、二條流の好みであつた。本歌取りといふことは、平安末期から定家の
時代に流行したので、其後の和歌にも傳統した。現代の歌人らは、さやうのことに全
く興味を持たない。筆者の如きは極めて稀に本歌取りを試みたのであるが、そこまで
鑑賞してくれる人はなく、又、今日の讀者にわかりもしないのである。本歌を取ると
いふようなことが善いか悪いか、うたとして上であるか下であるか、その論は別とし
て古人はさやうなことが好きであつたらしい。漢詩には、これに類した技法が殊に
夥しい。或る句や語の典據や古事は、うるさい程で、それが和歌の本歌取に類似して
ゐる場合が多い。みづから古を成した李白にさへ、古事や典據がうるさくある。和歌
の本か取りは畢竟唐詩の影響に違ひない。ついで乍ら、契仲阿闍梨の釋教歌、

 末の露もとの雫も播磨川海に出でてはかはらざりけり

も、萬葉の「播磨川」を本歌としてゐる。〇幽齋の歌を既刊小著の戰國時代和歌集に
                    みなかみ
擧げた際、初句を「水の上に」としたが、「水上に」の誤であつた。同書重版の場合
に訂正しようと思ふ。刊本の一つに「水の上に」とあつたやう記憶して、つい聞
違ひ、又「水の上に」とある方が一首の括りがよくなつて其方がただしいのだらうと、
                             みなかみ
早呑込みしたのであつた。九州の道の記にも「船人に尋けるに、水上に大雨ふり侍れ
ば」云々とあるので、疑問はない。

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