津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■わいさぎ

2022-01-13 19:32:54 | 熊本

 熊本のコロナ感染者がご多分にもれず急増している。
お正月に入ってから、0・0・1・1・4・24・31・59・61・76・109・177・296とすごい勢いである。
この勢いだと明日はコロナ発生以来の新記録を達成しそうである。
夕方5時過ぎになると、TVを見ている奥方が一々報告に来る。そこで私が一言「わいさぎ・・」

この「わいさぎ~」も熊本弁の典型的な言いようである。感嘆詞であり「わいさし~」ともいう。
「わぁ、潔い(いさぎよい)」が熊本独特の変化をとげたものだとされるが、「すごい?」の意でも使う。
我が奥方は宮崎の延岡出身で熊本弁が良くわからなかったが、最近私が大いに熊本弁を使い教育しているから、随分理解できるようになった。
最近の我が家での流行語は「がんばんなはり」、これは大阪弁の「がんばんなはれ」の熊本バージョン・・・
TVでスポーツを含めいろいろ頑張っている人に、「がんばんなはり」と応援している。

コロナの方はしばらく「わいさぎ~」状態が続きそうな気配である・・・・・

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■護貞さまの天草入りから42年

2022-01-13 08:47:19 | 歴史

 かって細川護貞さまが、天草の地に逃れたという細川興秋の足跡を尋ねるべく天草入りされている。
そのことを書き残された確かな文章が護貞さまの御著にあったから、大いに探したところ、「細川家に残っている手紙」という副題がついた「魚雁集」という著にあった。
「舞台裏の人」という項題がついている。
この御著は平成2年12月の発行だが、護貞さまが天草入りされたのは「一昨年の十二月十一日」と書かれているから、それは昭和も終わりの年・昭和64年(1989)のことである。
先に高田重孝氏が発見された元和7年(1621)5月21日付けの、内記(忠利)が与五郎(興秋)に宛てた書状により、大坂の陣の後、父・忠興から死を賜り伏見東林院で切腹したという話は完全に覆り、豊前に忍び入って細川家の保護下にあったことが判明した。
そしてその後天草の御領村に逃れられて、興秋の血は其後天草の地で脈々と続いてきた。
世を忍んだ興秋は、中村姓を名乗り其後9代目興道に至り長岡姓を名乗られた。

「全国かくれキリシタン研究会」会誌・第29号に、天草の中村社網氏が特別寄稿として「長岡興秋の生涯とその心」が掲載されているが、その中に興秋子孫の会「竹の会」設立の事が記されている。
それによるとこれは昭和58年(1983)の事だと記されている。護貞さまが天草入りされる5年ほど前の話だ。
護貞さまの没年は2005年、残念ながら気にかけて居られた興秋のことはご存知になられないままのご遠行であった。

私はと言えば、そんな会の存在を知ったのは、2000年代に入ってのことだと思うがそれでももう20年が経過している。
系図なども手に入れたが、なすすべもなく今日に至った。
今般の高田重孝氏著の「細川興秋の真実」発刊により、興秋の存在がまた熱く語られる機会が多くなることだろう。有難いことではある。

           

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