土日と散歩をさぼったので、今日は少し距離を伸ばそうと思って外へ出た。
ダウンを羽織って歩き出すと、手や耳は冷たいものの快適な感じである。5.2㌔コースの予定だったが、少々足を延ばした。
スマートホンの万歩計が5.7㌔と記録していた。傘寿爺様もまだまだ捨てたものではない。
ところが2/3ほど歩いたころから、兩足のふくらはぎがパンパンに張り、足のあどが痛くなってきた。
少々余計なことだったなあと反省しながら、途中ではダウンもぬいでなんとか完走した。是を75分ほどで歩いた。
時速にすると5㌔を割ってしまった。
ところで、今月25日に、データを取り始めたスマートホンが勝手に累計が550㌔に達したと報告してきた。
去年の8月1日からである。約5ヶ月、一月当たり110㌔、さぼりがあるからこんなものだろう。
参勤交代の行程もあと半年もすれば達成しそうである。そう思うとさぼってはいかんな~と思うのである。
忠利公の土木事業は城に関する事業は「城のしまりがない」として寛永11年に幕府に対して許可の申し立てをしている。
多くの事案を申し立てながら、実際完成を見たのは1件だけであったと伝えられる。後日取り上げたい。
一方河川については坪井川に於ける舟の運航を容易にするため川底の浚えを申請している。砂がたまり水深が1~2尺しかない為としている。
又、白川から河尻の大川(加勢川)までの高瀬舟による水運を確保するため、既存水路と白川をつなぐ掘削、既存水路の拡幅や浚渫も申し立てた。
(河尻への旧道添いには今でも細い水路が道にそって断続的に続いている。取り込みは蓮台寺橋付近ではなかろうか?)
申し立てに使われた絵図(南北が逆表示となっている)
堀内傳右衛門の「旦夕覚書」(肥後文献叢書・四 p146)にその経緯が次のように記されている。
忠利公御在江戸之時被得上意候て御下国之上にて、白川筋浅き所を御掘せ被成可成事あらば、川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様
に被成候はば、熊本賑やかに可成と思召候てそろそろと御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば、夜中にて御聞被成候て、
扨々夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て、夜中にても罷出候旨被申候へば、其儘被為召何事ぞと御意之時、唯
今初て承申候 白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば、今之如く其儘にて川尻船着奉能存候子細は、熊本之町中に駄賃馬持居申者
ともは川尻往来之駄賃取候故前々ゟ馬を持居申候、長六橋邊に船着候ては駄賃馬少く成可申候、左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀
成兼可申候、何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候へば、扨々尤至極に思召候、今度御在江戸之刻御願被成候間、先少々堀候
て其後ならぬとて御止可被成と御意之旨于今其掘懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候
堀内傳右衛門の話が本当であれば、この事業はとん挫したことになる。
米田監物が「河尻から熊本へ馬で物資を運ぶ馬子たちの仕事を奪うことになる」として反対したと記している。
私は、戦略的に使用されることを恐れたためと聞いたことがあるが、紙資料が見つからない。奉行所日帳などはどう記載しているのだろうか。