お正月早々から細川興秋の「生存」に関する書籍の発刊などいろいろ書いてきた。
元和七年当時の内記(忠利)から与五郎(興秋)の書状が登場するに及んで、一気に天草に伝承された興秋が天草に渡海してここで一生を過ごしたことが現実味を帯びてきた。
その書状については「細川興秋生存説」400年の真実でご紹介したが、その中に病の与五郎を治療する与安法印の名前が登場している。
この人物については随分以前当ブログでも取り上げている。徳川家康の御典医片山宗哲のことである。晩年の家康の病が「胃がん」であることを察していた与安(片山宗哲)は、薬研を使って自分で作る薬を服用する家康を諫めている。
これに激怒した家康は宗哲を配流処分とした。
興秋の書状が元和7年5月のことであり、そのころ父・忠興は眼病に苦しみ京都から槙島という眼科医を豊前に迎えて治療を受けたり、この片山宗哲から内科の薬の処方を受けたりしている。死に直面しており、これがきっかけで隠居を決断したといわれる。
忠興の許を訪れた与安法印を、ひそかに忠利が興秋の許へ遣わしたのであろう。当然のことながら興秋の名は伏せての事である。
しかし忠興は無事に回復して隠居を実行した安心感は、愛娘・烏丸の萬姫に届けられた書状からその状況がうかがえる。
宗哲の配流の時期は元和2~4年の事であり、赦免後の4年から没年の元和8年と時期的には全く符合する。
残念ながらこの時期の「奉行所日録」が見受けられないのが残念である。