津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■片山宗哲がやってきた

2022-01-17 15:34:03 | 先祖附

 お正月早々から細川興秋の「生存」に関する書籍の発刊などいろいろ書いてきた。
元和七年当時の内記(忠利)から与五郎(興秋)の書状が登場するに及んで、一気に天草に伝承された興秋が天草に渡海してここで一生を過ごしたことが現実味を帯びてきた。

 その書状については「細川興秋生存説」400年の真実でご紹介したが、その中に病の与五郎を治療する与安法印の名前が登場している。
この人物については随分以前当ブログでも取り上げている。徳川家康の御典医片山宗哲のことである。晩年の家康の病が「胃がん」であることを察していた与安(片山宗哲)は、薬研を使って自分で作る薬を服用する家康を諫めている。
これに激怒した家康は宗哲を配流処分とした。
興秋の書状が元和7年5月のことであり、そのころ父・忠興は眼病に苦しみ京都から槙島という眼科医を豊前に迎えて治療を受けたり、この片山宗哲から内科の薬の処方を受けたりしている。死に直面しており、これがきっかけで隠居を決断したといわれる。
忠興の許を訪れた与安法印を、ひそかに忠利が興秋の許へ遣わしたのであろう。当然のことながら興秋の名は伏せての事である。
しかし忠興は無事に回復して隠居を実行した安心感は、愛娘・烏丸の萬姫に届けられた書状からその状況がうかがえる。
宗哲の配流の時期は元和2~4年の事であり、赦免後の4年から没年の元和8年と時期的には全く符合する。
残念ながらこの時期の「奉行所日録」が見受けられないのが残念である。

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■まんぼうがやってくる

2022-01-17 09:05:17 | 徒然

 随分図書館にご無沙汰している。調べたいことがいろいろあるのだが、やはりコロナがブレーキをかけていた。
それでも一応開館しているから安心していたが、オミクロンとやらが猛威を振るい始め、熊本は感染者数の記録を毎日更新している。(昨日485人)
そこで熊本県はまんぼう発出の申請をするらしい。
そうなると、図書館・美術館・博物館などが閉館になる恐れがある。県立劇場やさくらまち熊本城ホール、熊本城なども対象になるだろう。
政府は一両日後検討に入るという。明日は図書館は閉館日、そのあと幾日開館しているかぎりぎりとなってきた。
今日は、調べ物のリストを作りもし閉館となるなら、滑り込まなければならない。

熊本市民会館が閉鎖になると「熊本史談会」の例会開催も危うくなってくる。なんとか回避したいところだが如何だろうか。

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