津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■自祝「さんじゅ」

2022-01-19 09:39:34 | 自分史

                                                えゝくろうて傘寿の朝のシャワーかな  津々

私は昭和17年1月19日に生まれました。本日傘寿と相成りましたが、昨日と今日何にも変わり有りません。
80年前の東京は随分寒かったそうですが、健康優良児で生まれ、東京市長(小石川區高田老松町生まれ)から表彰を受けました。
7歳年上の姉は「単なるでぶ」と憎まれ口で言いました。
その健康優良児は、生活習慣病以外は大した病気をするでもなく今日を迎えました。有難いことです。
86歳で亡くなった母を目標に頑張ろうと思っています。想いは昨年末の「年末雑感」で書いたとおりです。
昨晩の「ええくらい」は、70代最期の夜というセンチメンタルなものではありません。温かく寝ようとの「寝酒」です。
「酒飲んでええくろうてから風呂はダメですよ」というDRのご託宣通り、今朝起きがけのシャワーと相成りました。

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■後藤又兵衛の男・又一郎のこと

2022-01-19 08:04:55 | 歴史

 後藤又兵衛の奥方が加賀山隼人の妹だということを知ったのは、福田千鶴氏著「後藤又兵衛」によってである。
そして又兵衛の子・又一郎が隼人の娘・りゆを妻に迎えている。従兄妹同士である小笠原玄也とは相婿の関係となる。
又一郎は幼少の頃、父又兵衛の乞いにより忠興に預けられ、田邉城で成長したとされる。
この際、又一郎に関する資料をまとめてみた。


                      小笠原少斎-----+---備前・長基(6,000石) 室・忠興姪吉田二位女・たね
                      |
                      +---宮内・長良(600石) 室藤孝女・千
                      |
                      +---与三郎・玄也
                          ‖---------源八郎他八人
           +---加賀山隼人興良---+-----みや
           |          |
           |           +-----りゆ
           +--------         ‖  
                  ‖         ‖
              後藤又兵衛-----------又一郎 

 

【綿考輯録・巻十七】
 黒田の功臣後藤又兵衛筑前を立退候時ハ、忠興君を頼奉り小倉より上方江罷越候、忠興君御懇て村上八郎左衛門を大阪迄御添遺候、
 扨又兵衛二男又一郎九歳に成候を指上候処、又兵衛討死後公儀ニ被仰上被助置御知行五百石被下候
 同志茶話ニ、後藤又市郎は又兵衛四男と有誤也、其外又兵衛事ニ付異説区也(以下略)

■元和六年六月八日書状(大日本近世史料-細川家史料)
 後藤又一郎儀、五月中比より爰元はやり煩を煩申候、然共本復仕候處ニ、此四五日已前より気ちがひ申候而、むさと仕たる儀迄申候、
 大形にも御座候ハヽ、中津へ遣度御座候へ共、中/\道中今の分ニてハ成様子ニて無御座候、無是非儀共と奉存候、何とそ養生させ申、
 少よく御座候ハヽ、中津へ遣可申と奉存候事
■ 同年 八月七日書状
 後藤又一郎儀、成ほと此方二ても養生仕候、され共本復不仕候、ものをハ一段給候而、しヽなとも前よりハこへ申候、此中の薬ちとハ
 あひ申候哉、少しつかに成申候、被召置唐人之薬給させ度存候間、成ほとに御座候ハヽ、上せ申度存候へとも、中/\のり物も、又ハ
 とまりニても、戸かへもたまり不申候様ニ御座候つる故、何と仕候ても上せ可申様無御座候き、此比少しつかに成申候間、見合差上せ
 可申と奉存候事、委細又兵衛可申上候
■ 同年 九月二日書状 一部抜粋(魚住傳左衛門宛)
 又一郎ニ其元ノたうしん(唐人)薬をむりニもらひ候て、のませ申候へハ、少しつまり申候間、近々のほせ可申候間、又其元ニてたう
 しんニ被仰付候様ニ、可被申上候
■ 同年 九月五日書状
 後藤又市郎儀、此比少静ニ罷成候條、路地すからも■くるしかるましきと存、差上申、其元ニ居申候唐人之薬被仰付被遣候ハヽ、可奉
 忝存候事
■ 同年 閏十二月十六日
 仍後藤又一郎儀、少峯薬にて彌本復仕候、さ候ニ御座候へハ、母已下色々やしなひ申候者多御座候故、何とも身上つヽきかたく見え申
 候、御国役なとも調かね可申候、今少拙者知行之内をも遣不申候ハヽ、何ともなり申ましく候、いかヽ可仕哉、得御意候、次其元ニ被
 成御座候ハヽ、何(と)被成候とも御心つき可申候、何時なりとも拙者可参と奉存候て罷有候間、御一左右次第ニしかう可仕候、此等
 之趣、可然様ニ御披露處仰候
■元和七年九月二日
 後藤又市郎儀、去冬中津より江戸へ申上候キ、御病中ニて御座候故、御書ハ不参候間、重而得御意候、母も参候故、何とも身躰難成御
 座候而罷有候、後々迄も、いかようの儀御座候とも、はたし申間敷由、乃美主水(景嘉)を以御諚にて御座候キ、左様ニ思召候ものヽ
 儀、今之知行にてハ身躰何共不罷成候條、知行加増仕、無役にも可申付候哉、奉得御内意候、無役ニ成共、役申付候て成とも、御諚次
 第ニ知行遣度奉存候、但御心持も御座候哉と奉存候申上候事
〇元和七年九月三日(熊本県史料・近世史料編一 p307)
 後藤又一郎儀其方へ遣候時申候趣失念と相見へ候書中ニ者難申儀候間(加々山)主馬口上ニ申候事  (熊本県史料・近世史料編一 p307)
■ 同年 九月五日 魚住傳左衛門宛 忠利書状
 後藤又一郎儀被仰せ付け被下候時、知行五百石迄を遣、其後は主奉公次第ニ可仕由被下候由を、主馬ニ被仰越候、又一郎被下候時、御
 租は之者ともより状をそへ参候、五百石之知行の儀、何とも不申越候故、其儀不存、今度申上候 

 

熊本県阿蘇郡高森町にある永秀寺は、開山は了玄は後藤又兵衛基次の三男・永秀であり、開基は後藤又兵衛である。
もともとは熊本城下に在ったとされるが、万治元年の水害で流出し高森へ移転したとされる。
精しいことを承知していないが、大いに気になっている。

参考:■後藤又市郎音信に対する三斎の礼状


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