津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■高田重孝氏の論考三点

2022-01-30 18:08:54 | 論考

今般は初刊された高田重孝氏著「細川興秋の真実-ガラシャの真実を受け継いだ人々」は、20年の研究と「与五郎(興秋)宛の内記(忠利)書状」の発見によっての成果である。
その経過は、以下三点の論考を以て随時公開がなされてきた。私もその存在は当然承知していたが、今般このような大成果になったことはご同慶の極みである。
同書が私家版であるため入手が困難であるきらいがある。是非ともこの論考もご覧いただきたい。

           ■天草五和町御領の伝承『細川興秋と專福庵』に関する調査報告

           ■試論:細川興秋公の大坂の陣以後 【大坂の陣以後の行動についての確定事項と推論】

           ■福岡県田川市香春町教育委員会宛 香春町調査報告(不可思議寺など) 

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■阿波局つながり

2022-01-30 09:03:44 | 歴史

 今年の大河「鎌倉殿の十三人」は、三谷幸喜の少々おふざけ振りの脚本を良しとするのか悪しきとするのかは別として興味深く観ている。
北条義時を取り巻く女性の中で、「阿波の方」という人物がいる。どういう経歴の人物なのかと思いウイキペディアで検索している中で、クリックしそこないで、別の「阿波局」に飛んでしまった。
偶然というものは恐ろしい。導かれたのは後水尾天皇に仕えた「阿波局」であった。
私は机の上に中公文庫の熊倉功夫著の「後水尾天皇」を於いて時々目を通している。この中に細川家に仕えた朝山意林庵が登場するが、この人物の姉がこの「阿波局」である。
意林庵は慶長15年(1610年)、豊前に下って小倉藩・細川忠利に仕え、慶長18年(1613年)帰京している。その後また寛永11年(1634年)より、熊本藩に転じていた細川忠利・光尚から500石の賄料を受け取っている。
また、息・朝山景吉 (斎助)が細川忠利、光尚に仕えている。そのご子孫が細川藩士として明治に至った。
細川家に縁の深い朝山家の人物に「阿波の局」のデータで導かれた。

所で義時周辺には、妹の「阿波の方」がおり、あわせて側室に「阿波の方」(泰時生母)がおり、頭がこんがらがってしまう。
略系図でもみながらTVを眺めなければならない。

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