津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御意之御密事

2022-01-04 16:47:21 | 歴史

 嘉永二年(1849)正月二十四日付の興味深い書状がある。
これは熊本史談会の会員K氏のご親族岐部家に残る、同名弥三左衛門の「御意之御密事」とする文書である。
先祖附によると、弥三左衛門は安政四年(1857)六月に57歳で亡くなっているから、この記録を書いた年の嘉永二年(1849)は49歳であったことになる。
殿様の親し気な会話ぶりが興味深い。

                                         

                                     ( / 改行を示す)

 今日四半時分大槻弾蔵/同道 清田新兵衛一同ニ被召出/申候段 大槻内意ニ而罷出/候處 壱人〃〃ニ召候よしニて/始新兵衛御用相済下り候上/弾蔵同道 御人払候テ御二ノ間平伏仕居/候處 中居間近進候得■段々/結構ナル御意御座候而尚近ク寄候様/頻爲被有御沙汰候間/御密事ト奉恐察/御側近ク進候へ者/六之助俄国元出立いたしタ二/無滞早速調弥三左衛門格別/心配いたし 熱暑之時分昼夜/不怪世話いたし 人も少ク/嘸気削タデアロウしかし/無何事大安心いたしたり/御意に而暫奉伺御様子 御二ノ間迄/下り候處 又 弥三左衛門ト被遊御意候而乍恐/御側エ参り候へ者/其の方事去年/六之助国元へ下り候以来/格別心配いたし只今之處/大事處ナレド此元二テハ其ノ方/存念通二も参まひ朔月二/立カ御答申上候 下り候上は/二ノ丸に而指はまり少しも無遠慮/稽古事ハ不及申萬事/さしはまり/澄之助始三人子供世話/いたせ 御受申上候 これて大安心之/いたした 頼そ 嘸/澄之助始待テ居ルだろふ/当年ハ詰年 来年ハ/弥下ると申せ 只今か大事/文武稽古いたせと/申せ 呉々も指しはまり/世話致せ/御意乍恐御受申上御次/下り候處又弥三左衛門と被遊/御呼返 又御側エ罷出處/野口忠太ハ同役助勤せよ 同役は/誰々屋らと被遊/御尋ね候付 財津儀左衛門 松岡/甚九郎 不破大蔵 弥三左衛門共四人ニて/御目付本役にて御附助勤三人/岡田平八 松浦儀右衛門 野口忠太ト/申上候 被遊/御聞届 久野達者か大勢/子供能世話いたし大安心/いたすと弥三左衛門エ咄タト/心得而申セ 表向の様ニ/なり而者能ナト弥三左衛門か/心得而申セ あの久野者/正直ナル者二て 女ニテハ稀ぞ 奥の事ハ/何事相談いたし世話セヨ/来年下カラ其侭之處トおもい能世話いたせト申せ/其の時久野事始終/御答申上候處 夫テ大々/安心いたしたぞとの/御意之趣長ク御座/候得共要用之御用/筋 自然忘共いたし/申間敷 乍恐御意之趣/御言共其侭ニ書記 追而/火中いたし候筈ニて/誠冥加之程恐敷事ニ/御座候 以上/嘉永二年正月廿四日

 岐部弥三左衛門は四つ半(午前11時)時分に大槻弾蔵(300石)が同道して、江戸御留守居の清田清兵衛(300石)と共に殿様に召し出された。
細川家江戸上屋敷の辰口邸であろう。

大槻弾蔵とは御側取次や用人を勤めた人物だが、この時期の職務についてはどちらであるのかはっきりしない。
弾蔵がご内意につき罷り出ると、一人づつ召されるとの事で始め新兵衛が罷り出た。
新兵衛の御用が済み退出すると、入れ替わりに弥三左衛門は弾蔵に付き添そわれ、御人払いの御二の間に進み平伏して御出座を待った。

御出座があると中居間近く迄進むようにとの御意があり、膝を進めると猶近くまで進むようしきりに御沙汰がある。
これは御密事であろうと拝察して御側近くへ膝を進めた。

 出座をお待ちしているその御当人は、細川家の12代当主齊護(46歳)のことである。
過ぐる前の年、嘉永元年(1848)四月十四日齊護は嫡男・慶前23歳を亡くしている。
そのために二男・六之助を継嗣として幕府に届け出、国元に在った六之助を急遽江戸に呼び寄せたのである。
六之助とは齊護の二男であり、後の13代の当主となる慶順(よしゆき・後韶邦)のことだが、当時はまだ15歳で護順(もりゆき)と名乗っていた。
弥三左衛門はその六之助の御供をして江戸へ下ってきたのである。
「熊本藩年表稿」によると、六之助一行は七月十六日に熊本を発して、九月七日江戸に入った。
そして九月十八日幕府は六之助の嗣子たるを認め、この日に慶順と名乗ったのである。
細川家記によると六之助一行は辰口の本邸ではなく、下屋敷の白金邸に入ったものと推察される。

 弥三左衛門が御側近くまで膝を進めると、「六之助の俄の出立に際し、滞りなく早速万端を調え格別心配致し、熱暑の時分昼夜人も少ない中、不怪さぞ気遣いをしたことであろう。何事もなく大安心した」とのお言葉を賜った。
不怪は「けしからず」と読むが、「思いもよらず」の意である。
まさしくその道中は、真夏の真っ盛りの中であり、六之助を継嗣にするための慌ただしさが見て取れる。
一時二の間に下がっていた弥三左衛門に対し直接「弥三左衛門」と声をかけられたので、恐れながら御側へ参ると、「其方去年六之助が国元へ下って以来、格別心配致し、只今の處大事なる處なれど、此処では其方の存念通りには参るまい。朔月には立つか」との仰せに、その心つもりをお答え申し上げた。
「其方去年六之助が国元へ下って以来」云々とは、弘化四年(1874)九月廿八日の六之助のお国入りを示している。去年ではなく「去々年」である。
つまり、弥三左衛門はこの時分から、六之助のお付であったことが判る。そして今回の江戸入り後、特段の御付のお勤めもなく帰国が打診されていたのだろう。
弥三左衛門は帰国する旨をお答え申し上げた。

                        さし           
 すると斎護は「二の丸にて少しも遠慮することなく指はまり(指図)いたし、稽古事は申すに及ばず指図いたして澄之助はじめ三人の子供の世話をいたせ」との御意を受けて是をお受け申し上げた。
三人の子供とは六之助の弟たちで、すなわち澄之助・後の護久(12歳)、寛五郎・後の津軽藩主承昭(10歳)、そして末弟の良之助・後の護美(8歳)である。二の丸とは「二の丸御殿」のことで、現在移築された細川刑部邸があるあたりである。
すると「これで大安心致した。頼むぞ、さぞ澄之助はじめ待って居るだろう。今年は詰年(江戸詰めの年)、来年はいよいよ帰国すると申せ。只今が大事、文武稽古に出精いたせと申せ。くれぐれも指図いたせ」との御意を受け恐れながらお受け申し上げた。そしてお次へ下がったところ、再度お呼び返しがあり又御側へ罷り出ると「野口忠太は同役助勤せよ」そして同役は誰々かとのお尋ねがあったので、財津儀左衛門・松岡甚九郎・不破大蔵と自分の四人であり御目付本役として御付し、助勤は三人でありそれぞれ岡田平八(100石)・松浦儀右衛門(150石)・野口忠太(御中小姓)である事を申し上げた。
それから齊護は「久野」なる若殿様のお世話係と思われる女性について触れている。
「久野は達者か、大勢子供をよく世話をいたし大安心いたすとお前(弥三左衛門)に私が話したと心得て申せ。表向きの様になっては能なとお前が心得て申せ」とある。
これは表向きにて話すことではなく、弥三左衛門の裁量で密かに「久野」に申し伝えよという含みであろう。
個人の評価が表向きに成る事を避けている。

そして「あの久野は正直なる者で女にては稀なる者だ。奥のことは何事も相談して世話をせよ。来年は帰国するからその侭の処と思いよく世話をいたせと申せ」とのことに、始終承りたる旨を申し上げると「それで大々安心した」との御意である。
弥三左衛門は斎護との長いやり取りを「要用の御用筋であり、忘れないようにと書き記す、追っては焼却するつもりだ」「冥加のことで恐ろしいことだ」と記している。

このような内容の文書は表向きに現れることはない。弥三左衛門は追って焼却するつもりだと記しているが、これが岐部家に於いて密かに所蔵され、今日このように陽の目を見ることは、有難いことである。
先祖附によると、弥三左衛門は「同三月罷下」とあるから、この文書が記すように朔月つまり月の初めには江戸を立ったということであろう。

 以降は剣術師役を仰せ付けられている。「肥後武道史」によると弥三左衛門の流儀は新陰流である事が判る。
寺原に道場があったらしいが、「熊本所分絵図-寺原之絵図・68-8」には「岐部弥左衛門」とある。
その場所は「改正禄高等調」によると「大一大區六小區寺原壽昌寺丁二拾四番」とあるが、寺原は地名が替り、現在の熊本市壺川1丁目8-16あたりだと思われる。

岐部氏は大友氏の被官であった。大友氏の没落後、初代の弥三左衛門は大坂の陣に於いて細川忠興の陣に属して働く。
帰陣後細川家に召し出された。この項の主人公弥三左衛門は7代目である。

   ■岐部太郎
    1、弥三左衛門
    2、弥三郎   子・田中宗碩別家あり
    3、善甫
    4、市助
    5、弥三
    6、弥左衛門(養子 弥三左衛門)百石 細川斎樹公御書出(弘化四年)
    7、弥典太(弥左衛門・太郎)

       

 

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十四)

2022-01-04 07:46:24 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十四)

・曙やふもとをめぐる雲霧に彌高山のすがたをぞ見る

 九州道の記、七月十八日條、此朝備後の名勝の津から舟出し、終日終夜東航し
て、十九日の曉、「備中國にありと云彌高山、たしかにはなけれど、嶺つづきの中な
りと云へば」。彌高山、たしかには知り難きも、兒島半島の中の高峯ならんと考ふ。
曉の海霧濛々とたちこめた中に、さすがに彌高山、名にそむかず、屹然として姿を現
はしてゐる。拾遺集巻第三、深養父の歌、

 川霧のふもとをこめて立ちぬれば空にぞ秋の山はみえける

と全く回想ではあるけれども、幽齋の一首、亦捨てがたき野趣を持つ。


夕波のたての浦より弓張の月も光を放つとぞ見る 

 九州道の記。七月廿日のことなるべし。月明の夜舟に興じて備前蟲明の瀬戸を通過
し、「たての浦と云所に上り、人里もなき所に旅ねし侍り」。楯の浦、今究めがたい
が、蟲明と播州室の津との中間に在る海村にちがひない。一首は、楯の縁語で弓張月
   弓の
を出し、縁語で放の字を點じ、文字の技巧で作り上げてゐるやうだが、全躰がしつか
りと張り切つてゐるので、さやうな技巧が少しも障らない。これも武詠にふさはしき
佳作である。初句「夕波の」は立つと、楯に冠した枕詞だが、同時に實景をも現はし
てゐる。

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