先に■志賀休也御誅伐を書いたあと、高田重孝氏の著「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」を読んだ。
その中に「志賀休也」という項が立てられ、小笠原玄也一族16人の誅伐と共に同時に誅伐された「志賀休也とこさいしょう」が取り上げられている。
特に「こさいしょう=小宰相」について、高田氏は小笠原玄也に関連付けて論陣を張っておられる。
小宰相の名前は、細川興秋が弟・忠利にかわり、父・忠興から江戸證人として江戸へ赴くように命令された折、抵抗した際に説得した人物として登場する。
親身の説得だったとみられ、これに対する興秋の素直な気持ちを記した書状が残されている。
日付はまさに忠興に対する起請文と同日である。しかし出立した興秋は京都で僧形となり家臣を驚かせた。興秋は父・忠興の意に叛いたのである。
この小宰相という人物、資料に出てくるのはこの興秋にからむこの件と、主題であるこの誅伐に関する当事者としての二件である。
この大仰な名前の人物はいったい何者なのだろうか。
高田重孝氏はこの人物を「小也々」と比定されているようだが、これは明らかに間違いである。
小也々は忠興の愛娘・萬姫(烏丸光賢簾中)の生母であり、没年は寛永十二年十一月十九日、八代城内で亡くなっている。
京都に在った三斎の許に急使が派遣され、三斎は飛んで帰っている。
■八代万母儀煩之様子書中見申候
寛永十二年九月江戸に在った三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると
養生可仕と存候処、在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」
とあり「八代より注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御
妾母也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)
綿考輯録編纂者の小野武次郎は紫野の細川家菩提寺高桐院を訪れて調査をしているが、住職から完全否定されている。小野武次郎は合点の行かぬ様子であるが、この周岳院という人物は「平成宇土細川家家譜」によると、宇土細川家の祖である細川立孝の養母であると紹介されている。三斎が愛息・立孝の為に小也々を養母たらしめたということはあり得ないか?
小也々の墓所の存在が知れない。あるいは愛娘・烏丸萬が引き取ったのかもしれない。
小宰相という女房名は、土御門院小宰相や平通盛の悲恋の「小宰相の局」が有名であり、朝倉義景室「小宰相」や大熊朝秀室の「小宰相の局」などが居られる。
男たちが私称として□□守と名乗ったものと同じなのかもしれない。(私の先祖さえ越前守を名乗っている。図々しいのも程がある)
由緒ある(?)女房名をもった人物で、忠興の子をなした側室はその存在は認められない。興秋周辺の人物ではなかろうか。
ひょっとしたらガラシャ周辺の侍女などでもあったかもしれない。
興秋が豊前に入国ししばらく香春に隠れ住んでいたことが明らかになってきた。小宰相も興秋と共にすごし熊本に入国したのだろうか。
興秋は無事に天草に入ったが、小宰相は残念ながらとらえられたのか?
まったくその身分が明かされないまま、誅伐に至っていることは、興秋の天草入りを隠匿するために何らかの力が働いていることさえ伺わせる。
此の謎解きは回答を得ることは難しい気がしている。