津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本妙寺は放火、錦山神社は?

2022-09-09 08:35:40 | 徒然

 熊本史談会の今後のスケジュールの中では、会員の中に「西南の役」に御熱心な方がおられることもあって、「西南の役」が何度か取り上げられるようだ。
先に、警視隊の大警部・神足勘十郎が壮絶を極めた「段山の戦」で戦死したことに触れたが、その中で本妙寺が消失したことを知り、是が鎮台兵の放火であったことを知った。
ならば、錦山神社(加藤神社)はどうであったのか。もともとは熊本城内・平左衛門丸に鎮座していたが、熊本鎮台が城内に入るに及んで、旧氏家家屋敷に遷宮を余儀なくされた。
加糖神社のHPに「錦山神祠改建紀」があるが、これを読むと「明治八年、当時の権令 安岡良亮氏が、江戸末期の儒学者 安井衡氏に頼り内容を漢碑として大成させ・・・」とある。
また、「知事細川護久公が言われるには、神仏混淆は(明治)政府の意思ではないと。祠を城の中(熊本城)に移した。数十家の商人が移住した。
お参りする人は、昼夜となく集まった。この年の冬に鎮台が熊本城におかれた。陸軍省が論議していうには、軍容は厳粛であることを尊重する。
今、兵家と商人が入り交じっているのは、国威を損なうことになる。すなわち命令して商人を城外に出した。」ともある。

 ならば、商人だけを出せばよかろうにという論法も成り立つが、軍は遷宮を強行した。
熊本城の燃亡については、今日では谷干城の指示により自燃説が云われているが、谷は「清正公に申し訳ない」と放火を指示した人物に語っている。
果たして「錦山神社の燃亡」の原因は何だったのだろう。手元のわずかな史料では見出せないし、WEB検索でもようとして知れない。
私は、本妙寺同様、鎮台の指示によるものではないかと思っているが、御存知の方がおられればその典拠ともどもご教示いただきたい。



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■ヤフオク二件

2022-09-09 07:11:33 | オークション

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 いつも思いますが、こういったある程度まとまったお宅の資料は、出身地などしかるべき機関が落札されて研究資料などにされることを望むのですが、行政に於いては緊急の支出行為では対応しきれないのでしょう。
好事家の手に落ち、研究などされることを望みます。
私も喉から手が出るほど欲しいのですが、断捨離・終活を始めた身としては只指をくわえるのみです。

 

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