津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明治十年の熊本県廳

2022-09-15 07:38:43 | 人物

 現在の熊本第一高校は、熊本の歴史上大変興味深い場所である。
中世から近世初頭に於いては隈本城があった。鹿子木→城→佐々→加藤清正という武将たちが、此の丘陵地に居を構え激しく変貌する時代の流れに身を置いた。
細川家の時代になると、この一角は重臣たちの居住区となる。一本の道が城内に連絡していた。
明治期になると新時代の夜明けを思わせる、ジェンズやマンスフェルトなどの居館がたち、西洋式の学問に多くを学んだ人々が巣立っていった。
一方では「神風連の乱」が起り、薩摩の不平士族の東上により「西南の役」が勃発し、熊本はお城や城下は焼け落ち、各地が戦乱の地とかした。
川尻の地に軍を進めた西郷軍は本營を定める。町の平安の爲、前の川尻奉行を勤めた上田久兵衛は、町民の乞うところにより鎮撫隊を結成して、西郷軍との折衝や町の安寧の為に奔走した。
しかしながら、西郷軍が敗走するに及んで政府軍に捕縛された。「西郷に味方した」というのである。
そして、九月三十日の夜、高祖父上田久兵衛は、家族にも報せられることもなく明治新政府によって刎首させられた。
熊本県廳で刎首させられたというが、この時期県廳は現在の第一高校内に在ったとされるが、その詳しい場所もようとして知れない。花を手向ける場所がない。
罪状として、「朝憲ヲ憚カラス、名ヲ鎮撫ニ假り、兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ其長トナリ、西郷隆盛・池邊吉十郎等ノ逆意ヲ佐ケ」とあるが、安易に政敵を屠るという暴挙である。
後に名誉は回復され護国神社に祀られた。空々しい話である。
上田久兵衛を研究頂いていた鈴木喬先生は、「彼の業績と人望、それに今回も発揮された彼の威信と信望とが、当路者にとって、生かしておいては将来の禍根となるとの感を抱かせたためであろう。」と仰っていただいている。
かって河尻の町を尋ねて奉行所跡や鎮撫隊の本營地(河尻小学校)などを見て廻ったが、ただただ無念の涙を禁じ得なかった。
牢獄の中筆も料紙もない中で、元結をほどき、箸の漆をかみ砕き、楊枝で歌を書き残した。


              

 その一つに「秋風ノタヨリニキケバ古サトノ 萩ガ花妻今サカリナリ」がある。
今頃、その妻が夫の帰りを待った城山半田の川塘は、萩の花が咲き始めたことであろう。
私が勝手に名付けた高祖父の命日「萩花忌」が近くなってきたが、最近街中では萩の花を見かけなくなった。
一本だけでも仏壇に飾りたいと思うが、この時期なかなかままにならない。

コメント
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