津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■神足勘十郎の死と本妙寺の焼亡

2022-09-03 06:35:34 | 人物

 ご厚誼をいただいているNさまから、西南の役の折「段山の地」で戦死した「神足勘十郎」の事でご報告をいただいた。
ご報告を受けたサイトには、熊本出身の別働第三旅団(警視隊)の神足 勘十郎(カミアシカンジュウロウ)とある。
身分は大警部とあり、明治10年3月13日に死去したことになっている。
「カミアシ」は完全なる間違いで、「こうたり」と読む。
ご先祖様は、細川藤孝の居城「勝龍寺城」のすぐ近くにあった、その由緒を記紀時代に遡る「神足神社」の神官の一族である。
神足氏は天武天皇の皇子長親王の後裔とされる。
分家とも三家あり、共に「勝龍寺以来」の細川家根本家臣という古い家柄である。

勘十郎(細川藩当時・200石)も維新後、東京で身を立てんと警察に奉職したのだろう。
西南戦争が勃発するに及んで、明治新政府は警部巡査600余名を汽船で派遣、熊本の地の利に詳しい神足を派遣したものとおもわれる。

ある史料には「2月11日横濱を発し、17日長崎に入り、神足の率いる一行(300名か)は即日滊船(神奈川丸)に乗じ肥後に向ひ、(中略)茂木口を警備せんとするとき内務卿の命あり、更に急に熊本に向はしむ、乃ち滊船(蒼隼丸)の至るを待ち19日長崎を発し、夜肥後盗島に達し直ちに上陸し、是日午後12時曩の神足の部下(風涛の為めに百貫港の上陸遅延せり)と共に悉く入城せり」とある。

 吉田如雪正固遺稿「西南の役見聞記」によると、4月20日の項に「神足勘十郎本妙寺本堂焼亡の日戰死す」と書き残している。
如雪日記によると、3月13日は雨だったという。「一昨日より村に鎮撫兵を熊本隊より置き池上柿原村等は20名西浦流藻・安野某・大矢野仙之助等巨擘なり。十二ヶ村より金穀を出して之を養う、池上村に宿す。(中略)段山新八幡に薩の陣所あり、二丸邸と相向つて此度攻城第一の要害とす。砲戦始終此の台場にあり、此の日台兵ひそかに来つて薩兵の怠りを伺い急に襲うて之を奪う。薩も川塘を伝い援け来り、台兵と相唐突し川を隔て、戦う薩敗れて祇山に走る。(中略)薩兵段山を退いて牧崎村辺放火あり、台兵(鎮台兵)村の米穀を奪はんことを恐れ鎮撫兵夜柿原・池上両村の民を率いて米を取入る。(以下略)」

そして、本妙寺が焼亡したのは3月15日とある。「3月13日に死去」とは食い違いがある。
本妙寺が焼亡した記事は次のようなものである。
「払暁本妙寺方大中教院庫裏消失竝に内膳どの沼田どの焼くと唱うれども詳ならず、是台兵の焼所なり。(以下略)」

無念勘十郎は父祖の地熊本でなくなり、本妙寺の本堂も鎮台兵の放火により灰燼に帰したことになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする