先にも書いたが、終活の為に本を処分しているが、ふと目に留まった本の頁をめくると、すっかり手が留まり時間を費やしてしまう。
現在「翔ぶが如く」の第六巻に釘付けになっている。
その中に、明らかに司馬氏が人物を取り違えているとされる一文がある。
池部吉十郎等が組織した「熊本隊」に関するものである。
学校党は、幕末における公武合体派(佐幕派)だったとはいえ、薩摩の島津久光のような狂信的な保守主義ではなかった。
かれらの出身は石取り階級が多く、また旧細川藩における官僚層の出身もしくはその子弟が圧倒的で、要するに薩長両藩に
壟断されている東京政権については、肚をうちわれば、「天下をニ、三の旧雄藩に専有していいのか」という、維新に乗り
おくれた細川武士の雄藩人としての素朴な自負心と憤りからその反政府熱は出ているといっていいであろう。
かれらは、池部吉十郎に統御されていた。池部は肥後の西郷という異名さえあったほどに人望のある男で、かつては二百
石の身分であり、幕末では細川家を代表して京都にあり、公用人として奔走し、幕末における薩長の倒幕活動を陰に陽に索
制した。が、薩長が成功して新政府ができた。池部としては、満腔の不満があって当然であろう。
この文章の着色した部分は、池部吉十郎ではなく上田久兵衛だとされる。「肥後の西郷」とは久兵衛が西郷と比べても引けを取らぬ大兵の体つきであったし、後半部分は久兵衛の京都留守居役時代の事を指しており明らかな間違いであることを、上田久兵衛の研究をされていた鈴木喬先生や、川尻の郷土史家・西輝喜先生(小説「柳絮の舞)からお聞きした。
先にも記した通り、司馬氏には資料収集の係が居られたというが、この「翔ぶが如く」の大作に於いては、このような間違いも生ずることであろう。