細川三斎 書状軸装 ※読み有 (掛け軸 掛軸 掛物 茶掛 安土桃山 細川忠興 戦国武将 戦国大名 DQN四天王 茶人 )
出品者から読み下し文(下)が付けられた「有吉四郎右衛門・松野道孝・竺印・中庵」に宛てた三斎書状である。
この文章は、寛永九年細川忠利が熊本に入国したあと、三斎が熊本城を訪れた際、庭に女流歌人の桧垣媼の塔があることに気付き、先の城主で改易された肥後守(加藤忠廣)のこの様な行いを「気違一つのうちたるべきと存候」と強く非難して、八代へ向かう道中の川尻の宿舎から、早々(今年中)に元の場所に返却するよう、四名の者に宛てて下知をした有名な書状である。
花押もなく本物が存在する処から写し(原文と相違あり)であろう。
大変失礼だが、上記読み下し文は大いに難がある。僭越ながら正式な読み下し文をご紹介しておく。
昨日申度候つれとも始而
参候間無其儀候今日
天気悪敷候而川尻に逗留
申内に越中所より歩之
者参候間幸と令申候
仍ひかき(檜垣)の女ノ石塔
肥後守居間の庭に居て
御入候此女は三代集之内ニも
入無隠儀に候左候得者國之
古跡にて候に此墓の
石塔取候事も有間敷
儀に候殊に主城の庭に
石塔居候事も氣違の
一ツの内たるべきと存候
其上少も見事に無之候萬
事肥後被仕様悪事を仕り
可直儀に候條
當年中ニ是を被取除
昔の所へ遣むかしに
不替様被立置可然と存候
各御分別候而能
時分越中に可被仰聞候
哉 以上
十二月廿一日 三齋
(有吉)四郎右衛門殿
(松野)道 孝 殿
(山田)竺 印
(波多)中 庵
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