平成17年(2005)6月24日付けの熊本日々新聞が顔を出し、「探訪・江戸文化 in 熊本」に「火事と纏」という文章が掲載され、この纏も紹介されている。
これは熊本市立図書館藏の「中根家文書」に紹介されている、手控えと思われる熊本の夫々の町の「纏」の図である。
江戸期、熊本府中には、新町一丁目(1町)・新町二丁目(6町)・新町三丁目(4丁)・蔚山町(1町)・職人町(4町)・西古町(11町)・中古町(11町)・東古町( 町)・紺屋町(7町)・京町一丁目(1町)・京町二丁目(1町)・今京町(1町)・出京町(3町)・新坪井町(12町)・細工町(7町)・本坪井町(6丁)など計86の町があった。
(但し、資料に依り異同がある)
それぞれの町が単独であったり、またいくつかの町が合わさったりして消防の組織・鳶役が作られていたことが判る。
熊本に於ける火消しの制度は、安永10年(1781)12組の火消し組が編成されたという。
■円居(まといと読む)
これは、熊本の火事では1,778軒が消失したという一番被害の大きかった安永7年(1778)閏7月28日の娯楽寺丁より出火した火事を受けてのことであろう。
細川藩政期に於いて、寛永16年から大きな火事が67件に及んだ。細川家の入国は寛永9年だが、何故16年からとするのは、別の資料に依ると花畑邸で「ボヤ火事」が起きていることによるのだろう。■花畑御屋敷・今昔
以下、大きな火事について触れた過去のブログである。
■享保の火事(1)
■享保の火事(2)
■享保の火事(3‐了)
火の要慎さっしゃりませ