資料整理をする中で、いろんな地図をまとめるために大袋を作って収めたりしている。
江戸期のいわゆる絵図から近代に入ってからの地図、高速道路の地図とか、観光地の地図など雑多である。
そんな中に水前寺から砂取に至る、いわゆる木山街道の七曲りを歩いた時の絵図が出てきた。
その後、健軍神社脇から木山に至る道も自転車で確かめた。(一部は団地となり道路は消滅している処あり)
昨晩になり今度は甲斐青萍の西南の役当時、白川を渡河する「突囲隊」が描かれた図のコピーが顔を出した。
橋の上では陽動のための「侵襲隊」が薩摩軍と激突している中、「突囲隊」が上流部を渡河していった。
そして木山街道を下って行ったのであろう、あの七曲りの道を通ったのだろうか。
実は突囲隊はここで薩軍を振り切って水前寺→中牟田→健軍→隈庄(城南)をへて衝背隊が陣する宇土に達した。
突囲隊が宇土に達し連絡に成功したことにより、衝背隊が熊本城下を目指し、薩摩軍は敗走2ヶ月に及ぶ籠城軍も解放された。
甲斐青萍が描く所の多くの絵図は2017年、熊大の伊藤重剛教授により「甲斐青萍・熊本街並画集」として発刊された。
しかし、この「突囲隊」の図は掲載されていない。
著作権があってご紹介は難しいが、同じ場所は、明治33年7月の白川大水害の図として二枚が描かれている。
いずれも府中から対岸の大江方面を描いている。橋の上流部に流木などから橋を守るための構造物が共に描かれている。
また、マンスフェルトは「水前寺道の大川に架かる橋」とネーミングされた写真を残しているがこれも府中側から・・・
小泉八雲は「橋の上で」を書き残したが、まさにこの橋の上で車夫に往時の熊本城を語らせている。
安己橋上流100mにある「熊本城突囲隊出撃の所」表示板