津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御侍帳・家紋から考える(41)

2022-09-06 14:13:23 | 家紋

                                     
              新・肥後細川藩侍帳【や】の部

安場右八は、【丹後以来】【田邊城籠城】 (南東34-6)安場一平家の8代目である。3代目一平は、「赤穂義士首領・大石内蔵助切腹二当リ介錯」して有名である。家紋は「三つ矢筈紋」

安井左源次は、(南東34-21)安井喜平次家の7代目・左源次(喜平次)。家紋は「隅立井桁紋」「丸に下り藤紋」  

安井清左衛門は、(南東34-9)安井一二家の7代目・小太郎(清左衛門)。家紋は「丸に陰地紙紋」

矢野吉蔵は、(南東65-115 *)矢野三郎兵衛家の7代目。家紋は「丸に四つ石紋」  

柳井七兵衛は、(南東34-11)柳井 廉家の6代目。家紋は「隅立鉄炮角に六曜紋」  

梁瀬八左衛門は、(南東34-20)簗瀬土熊家の6代目、簗瀬徳翁、名は知房、騏兵衛と称し、後騏平次と改む。又徳翁と号す。
        学を好み傍ら算術に通ず。食禄二百五十石。時習館訓導より助教となる。家紋は「右片手藤紋」

矢住久三郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

矢嶋小一郎は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

弥富安之允は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

山田善平は、御鷹匠 (南東59-8 茶・鷹・馬)山田十郎家の3代目。家紋は「五つ木瓜紋」

              肥後細川藩侍帳【ま】の

松崎八左衛門は、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

松山源蔵は、松山弥右衛門家の3代目、家紋不明

松井直記は、家老松井家の分家・古城家(南東38-1)松井直記i家の5代直記・誠之(養子 実・長岡主水営之三男 亘)。
       家紋は本家同様「竹輪に九枚笹紋」   

松野外記は、大友義統の三男・右京進を祖とする、(南東36-1)松野孫三郎家の7代目・新太郎(外記)御留守居大頭 千八百石外二百石御足
                安永二年二月(上着座)~天明元年八月 番頭
                安永四年十月~安永五年十月 鶴崎番頭
                天明元年八月~寛政元年三月 御留守居大頭
                寛政元年三月~寛政五年二月 大御目付
                寛政五年二月~文化五年七月 中老
                文化五年七月~文化八年十月 備頭大頭 

     家紋は「算木」と大友家の紋「杏葉紋」  
松野 斉は、大友宗麟の三男・半齊を祖とする(南東36-3)松野八郎家の9代目・冨直(斎)千七百石。
     家紋は「算木」と大友家の紋「杏葉紋」  

松野亀右衛門は、大友宗麟の二男・道孝の嫡男・織部親英を祖とする(南東36-2)松野亀治家の10代目小源太(亀右衛門)か?
     家紋は「子持ち輪紋」  
松野善右衛門は、同上織部親英の二男・善右衛門を祖とする(南東36-5)松野一葉家。5代か6代か不明。
     家紋は「子持ち輪紋」  

松野武左衛門は、(南東36-4)松野七門家の6代目。家紋は「隅切り平角に松文字紋」「丸に柏紋」  
松野加右衛門は、(南東36-6)松野維格家の5代目・嘉右衛門。家紋は同上  

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■熊本城下の西南戦争

2022-09-06 06:46:18 | 歴史

 西南戦争は、明治10年(1877)1月29日に始まり、9月24日に終結したとされる。
9月24日とは、西郷が故郷城山で自決した日である。その日がくれば145年となる。
熊本城下に於いては、2月19日の熊本城炎上につづく薩摩軍の包囲と籠城戦が、4月14日の薩摩軍の撤退に伴う熊本城解放によって一応の決着がみられた。
それから薩摩軍の転戦と敗走は5ヶ月に及ぶことになる。政府軍の軍費は、当時の政府の歳入額に匹敵したと言われる。
西郷の蜂起から自らが命を絶つまでの約8か月間の九州各地での戦いは、町や村は焼かれ田地田畑は荒らされ、多くの民間人も死んだ。無為の戦いであったと言わざるを得ないが、一方では士族不満分子の蜂起を阻止した。
明治維新を成し遂げた薩摩の巨魁の死が、明治新政府の磐根を確かなものとしたことは皮肉と言わざるを得ない。

 私は、「西南の役関係文献目録」というものを所持している。
これは編者の山江村歴史民族資料館の菖蒲和弘氏からご恵贈給わったものだが、105頁におよぶこの冊子は氏が長年にわたり調査研究されてまとめられたものだが、小さな文字で平成29年8月現在知りうる「西南の役関係文献」がすべからく紹介されている。驚くべき史料である。
このように膨大な資料が存在するというのに、勉強不足の私は、熊本城下として特化した戦いの有様さえ知らずに来た。

 そんな中、デジタル展示「熊本籠城戦」.indd というデジタルサイトがあることを知った。
熊本人の目で見た京町台あたりから見た熊本城炎上の図「熊本城天守并民家焼亡細見之圖」(p2)などは誠にリアルで、まさに吉田如雪の遺稿「西南の役見聞記」の描写を髣髴とさせるものがある。
この資料については、熊本博物館学芸員の木山貴満氏の「資料紹介 吉田如雪の明治十年日記について」で詳しく解説されている。
 上記デジタルサイトが示す資料をみながら、私は大いなる勉強不足を痛感している。
数日このサイトとニラメッコすることになりそうだ。

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