津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■書籍終活・ごみだし二回目

2022-09-21 09:03:49 | 徒然

 紙袋四つに約100冊の本を入れて、両手にぶら下げて二往復、それに一般の紙類を小さなダンボール箱に入れて一往復、都合三往復ごみだししました。
片道100m以上ありますから、合計600mほどの重労働の散歩で、すっかり随兵寒合の涼しい朝になったというのに大汗です。
本はこれで都合で250冊ほど処分しました。あと大きなダンボールが三つほどあり、200冊ほどは入っているでしょうが、これは3回目、4回目のゴミ出しで処分の予定です。
それにしてもデスク脇の本棚は相変わらずの満杯状態で、本が減ったという感じが全くしません。
押し入れが少々すっきりした感はありますが・・・
問題は紙資料で、これを何とかしないといけませんが、まずは「有禄士族基本帳」の原本のコピーを処分するべく棚の上から降ろしました。コピーが5~600枚ほどは有るでしょうか。
熊本県立図書館でコピー代が一枚20円時代のころのものですから、10,000円以上の経費と労力を掛けた物ですから、処分を躊躇していたのですが今となっては処分対象第一号です。

まだまだ後に続きます・・・・・・

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■御侍帳・家紋から考える(43)

2022-09-21 06:44:42 | 家紋

              
                  新・肥後細川藩侍帳【ま】の部

■松浦吉左衛門は、(南東37-18)松浦治右衛門家の7代目・左太郎(吉左衛門)。家紋は「離れ鬼蔦紋」「   」
■松浦季大夫は、同上分家(南東37-17)松浦新吉郎家の5代目・源八(李大夫・十郎右衛門)。家紋は同上

■松尾亀次は、「細川家家臣略系譜」に記載がなく不明。
■松尾又左衛門は、     同上

■的場甚右衛門は、(南東38-13)【青龍寺以来】的場 登家。代々甚右衛門を名乗り人物の特定できず。家紋は「三つ石」  

■的場角兵衛は、的場三家の嫡家、(南東38-17)【青龍寺以来】的場寿平家の6代目・八大夫(角兵衛)である。家紋は「丸に■■」  

■的場喜太郎は、(南東38-16)【青龍寺以来】的場範十郎家の6代目。文化十年一月(目付)~文化十二年七月 用人、
        文化十二年七月~文政四年八月 奉行
   的場喜太郎 名は安実、斎藤芝山に学ぶ。藩に仕へ奉行職となれり。
 

■町 孫平太は、吉良左京進(長曽我部元親ノ弟吉良親貞ノ子・親実)を祖とする、(南東11-5)町(長曽我部)市郎家の6代目。家紋は「陰隅切り平角に片喰紋」これは宗家の「七つ片喰紋」に由来している。
                安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
                天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)

                寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
                寛政十一年五月~文化十一年七月(隠居)奉行

         町遊川 名は貞英、孫平太と称し、致仕して遊川と称す。藩に仕へ食禄四百石、
              使番、御目付、中小姓頭、奉行職等となる。事を執る甚敏にして渋滞なし。
              文政八年三月二十一日没す。享年八十三。墓は北岡安国寺。
        
 弟・村山次郎九郎、従兄弟・大里角次と共に各々奉行となり宝暦の改革に尽力す。  

■槙嶋太次郎は、足利将軍家執権職で宇治槙嶋城主の孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵雲庵)を初代とする 
        (南東38-3)槙嶋真徴家の7代目太次郎、千石。
                
享和二年三月(三拾挺頭)~享和二年十一月 鉄炮五十挺頭
                享和二年十一月~文化十一年六月 用人
 
                           家紋は「丸に三文字紋」「蔓付細柏紋」 

■益田弥一右衛門は、(南東38-2)益田弥一家。代々弥一右衛門を名乗るが、8代目・嗣太(弥一右衛門)と思われる。  
        御番頭御小姓頭御留守居御番頭・中着座御免之席 大頭席 千百五十石
                
文政八年二月(後拾挺副頭)~文政十二年二月 鉄炮語拾挺頭
                文政十三年二月~天保三年十二月 留守居番頭
                天保三年十二月~天保六年六月 番頭
 
        2代目弥一右衛門が天草島原の乱で実質の本丸一番乗りを遂げた。
        家紋は「右一つ丁子巴紋」「子持ち菱に中子菱紋」 

■益田八郎は、(南東37-12)益田才右衛門家の5代目。家紋は「隅切り平角に橘紋」  
■益田貞右衛門は、(南東37-13)益田熊助家の6代目か。(7代目も後、貞右衛門を名乗っている)家紋は同上  

■益田団七は、(南東37-14)益田寛吾家の5代目。家紋は「丸に■■」  

■増田勘十郎は、(南東37-15)増田貞右衛門家の7代目。家紋は「   」  

■増田角助は、【丹後以来】(南東37-16)増田十之助家の 9代・角右衛門(角助)か。文化七年から文政十年にかけて
      阿蘇南郷・山本・野津原・下益城・飽田託麻郡代を勤めた。家紋は「入れ子菱紋」
 

■牧 左学は、【青龍寺以来】(南東38-6)牧 新五家の6代目、佐学・顕相、相久(左太郎)1,000石、 
      牧家の嫡家である。
                正保三年八月~     熊本町奉行、寺社奉行兼
                享保八年十月~元文三年二月 番頭

                元文三年二月~宝暦四年二月(病死)鶴崎番頭 
      家紋は忠興拝領の「銀の中くり」、後将軍秀忠の所望により秀忠の円居となった。         
   

■牧 藤左衛門は、同上一族【青龍寺以来】(南東37-5)牧 藤衛家の5代目・辰之允(藤左衛門)。家紋は「銀の中くり」「扇紋」  

■牧 太直は、同上一族【青龍寺以来】(南東38-7)牧 新二家の7代目。家紋は「丸に沢潟紋」である。 

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