1607(慶長12)年と言われてきた熊本城の完成がさらに早い時期だった可能性を示す加藤清正の書状が見つかったことが31日、分かった。家老の加藤正次に宛てた1603年5月21日付の書状で、清正が熊本城普請がはかどっていることを喜ぶ内容が記されている。調査に当たった東京大史料編纂所の林晃弘助教(日本近世史)は「1603年に石垣の大部分が築かれていたことがうかがえ、熊本城の完成は1607年より前の可能性がある」と話している。 所有者は、武田流弓馬道司家の金子家敏さん(神奈川県鎌倉市)。金子さんの家には、熊本藩の竹原家から弓馬の故実書などが代々伝わっており、東京大史料編纂所が2019年から調査を進めていた。 熊本城は1599年までに築城が始まり、1600年ごろに天守が完成。林助教によると、城全体は1607年に完成したと言われてきたが、根拠となる史料は後世に記されたもので正確な時期は分かっていないという。
今回確認された清正の書状には、「熊本普請について皆の働きによりことのほか捗[はかど]ったとのこと、満足である」とある。林助教は「熊本普請」を熊本城の石垣などの普請(土木工事)と捉え、書状が書かれた年を清正がいた場所などから1603年と推定。「1602年から多くの重臣を動員する大規模な普請が進められ、書状を出した時点でまだ建物部分の工事は続いていただろうが、翌03年の段階で熊本城は完成に近づいていたのではないか」と分析する。 書状はもともと折紙[おりがみ]だったが、現在は切り離されて上下2段に軸装されている。どちらも縦は約17センチ、横は上段が約37センチ、下段は約32センチ。熊本城の普請のほか、端午の節句で帷子[かたびら]が五つ贈られたことへの謝意や、江戸を出発して5月10日ごろに上方に着いたことも伝えているという。 古城時代を除くと、熊本城の築城に関する史料は十数点しかなく、林助教は「当時はまだ徳川幕府が成立したばかりで、豊臣秀吉に仕えていた清正の熊本城築城について研究を進めることは、政治史の観点でも意義がある」と話している。(園田琢磨)
■清正文書に詳しい宇土市教委の大浪和弥学芸員の話 清正は家臣に対して厳しい性格で、本人が満足していることが分かる史料は珍しい。書状では百姓たちの耕作状況に対しても「承知した」と前向きに受け止めており、築城だけでなく清正の領国経営が軌道に乗り出したこともうかがえる。
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私は「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」にある善蔵の「慶長三年からお城の建て方に手を付けられた」という言葉から、石垣はその一二年前から着工していなければ、この言葉にはつながらないと考えてきたが、まさに今回のこの資料はこれを裏付けるもので感慨深い。いろんな先生方の慶長三年着工説は「建て方=着工」という言葉の解釈が至っていないことに尽きると思う。「建て方」とは建築用語であり、木造工事が始まることである。
林助教からは過去にいろいろ資料を頂戴した。新しい史料の発見でまた熊本城築城の歴史が改まるかもしれない。先生のご活躍をお祈り申し上げる。