津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

小笠原多宮家

2007-07-20 21:53:06 | 歴史
 熊本には二流の小笠原家がある。一つはガラシャ夫人の介錯を務めた小笠原少齋を祖とする小笠原備前家。もう一つが「風林火山」にも出てくる小笠原長時の孫、秀政を祖とする多宮家である。秀政の妻は徳川家康の嫡男・信康と織田信長女・徳姫の娘・登久姫である。その娘千代が徳川秀忠の養女となって細川忠利に嫁いだ。秀政の二男が総領家となり、肥後に移封の後の小倉藩主となった。長男の子長次が中津藩主、三男忠知は杵築藩主となったが、子孫は三河吉田藩→岩槻藩→遠州掛川藩→陸奥棚倉藩→肥前唐津藩と苦労している。弟重直は松平家に入り杵築藩主として明治まで続いた。さて肥後の小笠原多宮家は忠知の末子長賢を初代とする。細川忠利夫人千代姫からすると、かわいい甥っ子という事になるが、元禄十四年忠利の孫綱利から弐千石を賜った。織田信長、徳川家康、正室築山殿、嫡男信康そして、小笠原長時、貞慶、秀政の血を受け継いだ名家である。ちなみに貞慶は秀吉に仕えていたが、尾藤知宣を匿い改易となったが、その後徳川家に随身し、秀政に至って信州飯田城主となった。

 尾藤知宣の子、尾藤金左衛門も又細川家家臣となった。嶋原役に出陣し名乗りを上げている最中に矢を受けて「金・・キャツ・・左衛門」と叫びながら倒れたと伝えられる。又尾藤家の武具がそのまま加藤清正に譲られ、その家紋も「蛇の目」と合せて加藤家の紋と成っている。
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秉燭夜遊

2007-07-19 20:56:10 | 徒然
 いつもお世話になる「上妻文庫」だが、それぞれのページに小さな火が燃えている油皿の印形が押されている。私達は当然の如く「上妻文庫」と呼んで親しんでいるが、本当は「秉燭雑録」である。「へいしょくざつろく」と読むのであろうか。「秉燭」とは印形にある、「油皿の中央に置いた灯心に火をつける灯火器具」である。このような灯火は今では全く見ることは無いように思うが、かつて神社あたりで見受けたような気がする。灯心のことを私は「とうしみ」と呼んでいた。井草の皮を剥いた柔らかな心(芯)に、油を吸わせそれを燃やすというわけだ。当然ながら家庭で使うというような代物ではないが、どこかで見たのだろうか。で無ければ「とうしみ」などという名前も覚えるはずはない。「秉燭」は「ひょうそく」とも「ひんそく」とも読むらしいが、辞書をひも解くと「秉燭夜遊=へいしょくやゆう」という言葉がある。「灯火を灯して夜まで遊ぶ」という事らしい。上妻先生は実に437冊に及ぶ膨大な写本を、熊本県立図書館に寄贈されているが、数十年にわたり夜遅くまで写本にいそしまれたと伺っている。正に「秉燭夜遊」の生活であられたらしい。そしてその光をもって、われわれ愛好家や研究者を導いて下さっている。

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宇土支藩・立之夫人栄昌院のこと

2007-07-18 23:36:12 | 歴史
 「細川宗家の血は宇土細川家の血」というのは私の口癖である。いわゆる本流の血は治年でとまった。養嗣子に迎えたのは治年の正室埴姫(宇土支藩細川興文・女)の弟・立禮である。宗家に入って齋玆と名乗った。本家に入るについて宇土支藩の後は、嫡男立之がわずか三歳で継いでいる。宗家において齋玆の後は実子・齋樹が継ぐ。ところがこの齋樹に継嗣がいない。そこで再び宇土家から齋樹にとっては兄に当たる立之の子立政が宗家に入るのである(細川齋護)。細川宗家の血の入れ替わりである。立之夫人は時の老中・土井大炊頭利厚の三女福姫(富姫・共ニトミ)である。栄昌院と申し上げるが、この方については「栄昌大夫人遺事」という文書が残されており、賢夫人で有った事が窺がえる。我が子の教育については、お付の家士に対し「悪い事があれば折檻しても良い、斟酌はいらない」と言い渡している。今の若いパパ・ママや、根性の定まらぬ教育者に聞かせたいものだ。宗家の跡を継ぐに当たっても、「贅沢してはいけない、側室も多く抱えてはいけない」と意見している。宇土細川家は立政(齋護)の弟行芬が継承し、その血は近衛家へと受け継がれて行く。その事が現在の細川家の礎と成っている。
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倦怠期・・・?

2007-07-17 18:29:12 | 徒然
 昨日の熊本城築城400年記念のシンポジウムなどに参加して、つくづく学問をする事のすばらしさを痛感した。諸先生の、極めた人の哲学といったものに触れた感じだ。さて自分はというと、最近は間口が広がりすぎて、何をやっているのか全く分からない。何か一つ事を深く深く極めたい衝動に駆られるのだが、家士ご子孫からメールなどいただくとすっかり嬉しくなって「そんな事は我儘だぜー」と思ったりする。なんだか空しさ感に襲われている昨今だが、最近の我がブログの内容なんぞ「中身無ぇなー」とショゲ込んだりする。いろんな書物には触れているのだが、「ねた捜し」に終始している。学問どころか、学習にもいたっていないし、「どうすりゃいいのー」と大声を上げたい気分。サイトを立ち上げてそろそろ三年、倦怠期か・・・・・
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佐久間不干齋書状

2007-07-16 10:36:27 | 歴史
 何処に入れたのだろうとあちらこちら探して、ようやく探し出した貴重な資料がある。これに関する顛末をまとめておきたい。
 
「久野氏+諸氏ミニ情報」というサイトがある。久野氏についての特化サイトだが、以前熊本の久野氏情報をお送りした事がある。佐久間信盛に仕えた久野次郎左衛門、細川忠興に殉死した久野与右衛門などである。久野与右衛門については、当家初代の兄磯部長五郎が介錯役を務めたということもあり思い入れが深い。前者の久野次郎左衛門は、先祖附から先主が佐久間信盛であることが分かり、その旨をご連絡したのだが、たいへん吃驚しておられた事を思い出す。多分このサイトがご縁だと思うが、次郎左衛門のご子孫(M・K氏)からご連絡をいただき、「屋敷図」などの貴重な資料を頂戴した。
 2006年5月下旬、「茶人・佐久間不干齋書状・細川家臣久野次郎左衛門宛元和六年」というものがYahooオークションに出品された。このことをお知らせいただいたのは、細川内膳家のご子孫(J・H氏)である。良くぞ気が付かれたものと感心したものだ。早速M・K氏にご連絡したところ、後日「落札」された旨のご報告をいただきコピーをお送りいただいた。
 その時分、佐久間氏のご子孫(M・Y氏)から、当サイト侍帳にある肥後佐久間氏についての問い合わせがあっていた。熊本の佐久間家は佐久間勝之の弟・佐久間角介正頼を祖として後細川家臣として現在に至っている。いろいろなやり取りの中での「不干齋」の書状の出現であったが、佐久間M・H氏は首を傾げられていた。「本物ではなかろう」との意であろう。久野氏の了解を得て佐久間氏にお送りすると、「正に本物です」というご連絡をいただいた。関係された皆様に早速のご連絡をしたのは当然の事だが、後日佐久間氏から数葉のコピーが送られてきた。「京都古書籍・古書画資料目録」と言うものの抜粋である。目を通して驚いてしまった。「肥後国熊本藩 久野家文書」とある。「三齋宗立書状」や歴代知行状十三通、柳雪義信筆の絵など多数に上るものだ。不思議な事があればあるものだと感じた事だった。
 さてその不干齋の書状、オークションの際の説明書には、次郎左衛門の細川家仕官に関するものとされている。又、次郎左衛門にかんする説明には、当サイトの「新・肥後細川藩侍帳」が転載使用されていることが面映い事であった。
「上下にきつく伸びた筆線にその人となりが知れるようです」と説明あるが、皆目何が書いてあるかわからない。なんとか読み下す手立てを考えなければ成らない。サイトを通じてご厚誼いただいた皆様の、ご好意の賜物であると感謝である。
 
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久八叢書

2007-07-15 16:53:29 | 書籍・読書
 思い立って久八叢書の「丹後細川能番組」をみている。今日はその内容について述べようとしているのではない。私はこの久八叢書なるもの発行形態については、詳細なる知識を持ち得ないが、刊行に係わっておられる宮園昌之氏が主宰者であろうことは想像に難くない。この「丹後細川能番組」はそのまえがきから、大分の杵築史談会の久米忠臣氏の発案で復刻がなされた事が分かる。丹後細川氏・松井氏の研究者である宮園氏は、明石市在住であるが、その熱意は尋常ではない。お二人の研究を通じての交友が、このすばらしい成果を導き出している。そんな久八叢書の私が知り得る既刊を見てみると
    1、松井家の出自を求めて   宮島保次郎
    2、過度の久美浜       稲葉 祐
    3、松井康之伝(一)     宮島保次郎
    4、松井康之伝(ニ)     久米忠臣
    5、丹後久美浜湊五軒家    寺島龍太郎
    6、九州に於ける関ヶ原戦考  宮島保次郎
    7、松井水軍考        村野孝之
    8、玄圃藁          常喜山宗雲寺編
    9、もう一つの関ヶ原
       ・丹後編-関ヶ原合戦の先駆け 丹後の攻防
                      村野孝之
       ・肥後編-小説「修羅の果て」 蓑田正勝
    10、丹後細川能番組      

以上であるが、「丹後細川能番組」が2001年7月の発行であり、ひょっとしたら新たな叢書の発行があるのかもしれないが、情報を知らない。熊本県立図書館に於いても(1)~(9)については所蔵しておらず、これだけ素晴らしい著作を熊本県民が目にする事が出来ないのは残念の極みである。細川氏の事跡は、丹後-豊前-杵築-肥後-豊後領と広範に渡り、各地の研究者によってすばらしい研究がなされているが、我々はそのことを知り得ないまま過ごしている。情報を共有しネットワーク化して、このような貴重な資料が公開される事を切望して止まない。

 ちなみに杵築史談会・久米正臣氏のご研究「生きていた浅井長政・お市の次男 万菊丸」は、長政の子孫が肥後細川藩、豊後杵築藩に仕え、そのご子孫が営々として現在に至っておられる事をその著書で発表されている。
各地に多士済々、細川学は熊本の地以外で大活躍である。これらの情報は芦屋市在住の田邊城籠城衆の一人(二人だ)寺井氏の提供を受けた事を記しておかなければ成らない。只々感謝である。
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台風一過

2007-07-15 11:03:00 | 徒然
 昨日の夕刻、台風の熊本直撃が避けられた事を確認、ほっと一安心。妻の実家の宮崎方面の被害が無いよう祈らずにはいられない。(東国原知事もお疲れ気味のようだし・・・) 安心ついでに窓を少し開けて網戸状態で就寝したのだが、夜半余りの涼しさと強い風に眠りを破られて窓を閉めた。いつもより少し遅れて起床すると、25~6度の気温に涼しい穏やかな風、まるで秋のような気配だ。台風はとTVを覗くと、駆け足で北上している。台風と共に梅雨も消えてもらいたいものだが、そう簡単には梅雨明けとも参らぬらしい。ドピーカンの夏日は程遠い。私の図書館通いの再開も梅雨明け後にしようと思っているのだが、明日は熊本城築城400年記念シンポジューム第一回「築城前後の熊本に見る肥後スピリット」に出席、21日は「熊本史談会」の例会に出席など、雨中突破しなければならない。
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雨の次は風

2007-07-14 11:50:51 | 徒然
 1999年9月24日の台風19号は、全国各地に甚大な被害をもたらしたが、その後二ヶ月ほど私は熊本県下の被害調査に携わり、あちこちで悲惨な被害を目のあたりにして愕然としたものだった。こんな台風は50年・100年に一度のものだろう、などといっていたら数年後又同じような規模の台風に襲われた。二度とも幸い直接の被害には会わなかったが、電気のない生活を1週間ほど経験した。そんな経験もあってか、奇妙に構えてしまってなんだか落ち着かない。雨に打たせようと外に出しておいた観葉植物を取り込んだり、愛犬の避難先をどうしようと頭を抱えたりして、昨日寝たのは一時を過ぎていた。今朝も早くに目がさめて起床、いささかまぶたが重いのを、モーニングコーヒーでこじ開け、時折TVの情報に走りこみながら、台風対策を続行中。どうやら直撃は免れそうだが、又大雨をもたらすことだろうし、今年の梅雨は気が休まらない。
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篠路兵村

2007-07-13 17:43:41 | 歴史
 日頃ご厚誼いただいているエッセイストG氏から、明治22年熊本の士族をはじめとする46名の方が屯田兵として入植された「篠路兵村(当時)」の地図をお送りいただいた。氏のご先祖様は米良氏、赤穂義士堀部弥兵衛の介錯を務めた米良市右衛門のご子孫である。
明治九年「敬神尊攘」を信条とする神風連の一員として同志百七十余人と共に挙兵し、若い命をたった米良亀雄も又一類の人である。その米良氏が明治22年篠路兵村に入られた。既に四代の星霜を重ねられているが、氏のエッセー「めら爺」などに詳しい。
 熊本人の北海道入植は明治18年に始まっている。同年七月に「江別兵村」に11家族、「野幌兵村」に21家族、明治20年5月に「新琴似兵村」に41家族、そして上記の明治22年7月「篠路兵村」に46家族、以降15の村に103の家族が入植している。最後は明治32年とある。その名簿を入手する事が出来た。先の「篠路兵村」の地図には、各家々の当主の名が記されている。これを蛍光ペンでなぞりながら、42家族の家の位置を確認する事が出来た。この時代になるともう士族だけではなく、一般の人も入植したらしい。まだ完全に編集が終わっていない「有禄士族基本帳」をひっくり返しながら、それぞれのお宅のご先祖様が分かればと、追いかけっこを始めた。さていつの事になるのか・・・
入植された方々のご子孫も、すっかり道産子となられ、肥後熊本の血が流れている事さえご存知無いかもしれない。
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細川家の大名屋敷

2007-07-13 16:22:59 | 歴史
 平成12年11月熊本大学は、第17回熊本大学附属図書館特殊資料展として、「永青文庫による・細川家(藩)の大名屋敷」という絵図の展覧会を催している。私はまだ当サイトを立ち上げておらず、情報に触れることなく未見に終わった。幸いな事にその内容をサイトから見ることが出来て幸いである。
  http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/rare/pdf/017pdf
 先日9日このブログで「細川邸義士切腹図」と題して、サイト「赤穂義士資料館」主宰佐藤氏のブログ「おきらくごくらく」の、同名のコメントをご紹介した。(詳細はそちらを・・)右田佐助が描いたとされる「切腹図」と、「細川家御預始末記」に書かれた絵図(平面)が違う事に着目されての卓見であった。私は未見の資料であったが、佐藤氏から「赤穂義士史料・中巻」に掲載されている旨お教えを受けた。雨続きで図書館に出かけるのを躊躇している旨ご返事したら、なんと早速コピーを宅急便でお送りいただいた。ただただ感謝である。さてこの絵図をみると、佐藤氏ご指摘の事が十分理解できる。そこで先の「細川家の大名屋敷」を眺めてみると、「4、芝御屋敷絵図」がそれに該当するのではないかと思うのである。図面左上に能舞台が見える。右の黒く塗られた部分が御成御殿だと思われるが、その間に広い庭がみえる。この部分が義士切腹の場所が設えられた場所ではないのだろうか。二つの貴重な史料を見ながら、想像をたくましくしている。
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むりやり・細川つながり豊臣家

2007-07-12 16:33:52 | 歴史
 豊臣家の直系子孫は無いのだから、高台院の血筋を考えると細川幽齋の娘・加賀が日出藩藩主(30,000石)木下延俊に嫁している。延俊は田邊城攻めの一翼を担わされ、舅を攻める立場にたたされるが、陣代を送り尚且つ攻撃するでもなく情報を細川家に伝えたりしている。忠興とは義兄弟であるが大変仲がよかったらしく、面白い話が伝えられている。延俊については「日出町・昔の村の物語」という、秀逸なサイトがあるのでこちらをご覧いただいたが良かろうと思う。
    http://www3.coara.or.jp/~primrose/chousi.html
 延俊と加賀の間には三人の女子があるが、お豊という娘(豊臣の名字から名付けられたのだろうか)は高台院から大変かわいがられたらしく、その嫁ぎ先は高台院の世話によるとも伝えられる。高台院と忠興の交流などもあったのだろうが、そんな史料は無いのだろうか。辻褄合せの一席・・・おそまつさま。
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太陽が顔を出しました

2007-07-12 15:52:39 | 徒然
 久しぶりに太陽が顔を出した。二週間ぶりくらいではないのか。道をはさんでお向かいのアパートのベランダも、久しぶりの洗濯物で満艦飾である。しかしながらいつまで持つのか、台風4号が追い討ちを掛けるようにやってくる。隣町ではいつもは水無川の健軍川が増水し、見廻りにこられた熊本市の職員が、流されて死亡されるという不幸があった。54年前の水害がトラウマとなっている私は、標高の高い熊本市東部に住まいしているが、まさかすぐ近所でこのような事がおこって吃驚している。今は除湿の為に時折動かしているクーラーだが、本格稼動は台風通過後となるのだろうか。

(追伸)
 夕方6時半頃、ものすごい稲妻と雷の音と共に大降りの雨になりました。瞬く間に道路の側溝が溢れ出しました。洗濯物が出たままのお宅がありますねー。また梅雨に逆戻りですよ・・・。
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最強・細川つながり徳川宗家

2007-07-11 09:36:38 | 歴史
 細川護貞氏ニ女・寺島雅子さんの著作「梅鉢草」を、某書店の店頭で見つけたのは、もう十数年前のことである。ぱらぱらめくっていたら、なんと叔母(亡父の末妹)の写真がある。買い求めて詳しく読んで合点した。雅子さんの幼い頃、叔母は「お遊び相手」に選ばれてお屋敷(小石川細川公爵家)に上がっていた。父親(私の祖父)が細川家の家扶をしていた関係である。その本の中に雅子さんの長女幸子さんと、徳川宗家恆孝氏夫妻の写真があり、細川家と徳川家のつながりを知った。すなわち細川護煕・近衛忠兄弟と、徳川宗家十八代当主恆孝氏は従兄弟ということになる。八代松井家の先代祥之氏夫人・泰子さんは寺島雅子さんの妹であり、現当主葵行氏も従兄弟である。
 恆孝氏の実父松平一郎氏は、会津若松の松平容保の孫、故秩父宮勢津子妃の弟である。慶喜-家達-家正と続き、家正女(豊子)の婿松平一郎の子・恆孝氏が宗家を継いだ。

 来年の藩校サミットには徳川恆孝氏、細川護煕氏・松井葵行氏の従兄弟トリオにぜひご出席いただきたいものだと思う。
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又候・細川つながり将軍家

2007-07-10 14:42:01 | 歴史
 細川家十代斉樹(ナリタツ)の正室は一橋家徳川治済(ハルサダ)女・紀姫、治済の子家斉は将軍家に入って十一代家斉となった。ということは、斉樹と将軍家斉は義兄弟ということになる。斉樹の父・九代斉茲は宇土支藩・細川興文(月翁)の子で、八代治年の養嗣子となって本家に入ったが、斉樹には継嗣子がなく同じく宇土細川家の細川立政の子・立之を養嗣子とした。斉護(ナリモリ)と改名しているが、斉茲・斉樹・斉護の三代が「斉」の字を使っているのは、将軍家斉に係わりがあるように思われるが、どうだろうか。斉護の正室は広島藩浅野家斉賢女で、ここにも「斉」つながりが見える。
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細川邸義士切腹図

2007-07-09 16:32:49 | 歴史
 ご厚誼をいただいているサイト「赤穂義士資料館」を主宰される佐藤氏の、ブログ「おきらくごくらく」に興味ある内容を発見した。「細川邸義士切腹図」とある。私が承知しているこの「切腹図」は、大石内蔵助を介錯した安場一平家に伝わるというものだろうと思うが、さすが佐藤氏は他にもいろいろご覧に成っておられるようだ。この絵は熊本藩士右田才助が書いたものとされ絵師であるとされてきたが、私は右田家の先祖附をみて些か腑に落ちぬ思いを持っていた。今般の佐藤氏は、永青文庫(熊本大学所蔵)の「浅野内匠頭殿家来之内御預ヶ人一途之御控帳」の記録と、「切腹図」の相違を指摘されている。大意は「右田氏の作とするのは疑わしく、時代も下ってからのものだろう」というのである。大変説得力のある御説で「わが意を得たり」という想いである。内容はブログを直接ご覧いただきたい。 
       http://ameblo.jp/satomako/ 「おきらくごくらく」
私はひそかに、後年安場家の方が先祖の名誉の為に、絵師を頼んで書かせたのではないかと思っているのだが、如何・・・
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