津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

大雨の被害

2007-07-09 10:18:30 | 熊本
 熊本の大雨の被害のニュースが全国に流れているようですが、熊本市周辺部では雨も小康状態になり、まずは一安心といったところです。大きな被害が出た美里町は平成16年11月、旧中央町と砥用(トモチ)町が合併して出来た新しい町です。今回の被害は旧砥用町、霊台橋という美しい石橋で有名な山間部の町、特に山あいに入った処です。山を越えると旧泉村(現・八代市)で平家の落人伝説で有名なところです。1時間に85㎜もの雨が降ったといいますから、今度の被害もうなずけますが、幸いなのは死者が出なかったことでしょう。私は昭和28年の大水害がトラウマになって、標高の高い熊本市東部に住んでいて、市内中心部の事がよく分からなかったのですが、熊本市を貫く白川が後1メートルほどで危なかったと聞いて、思わず身震いをしてしまいました。福岡や四国の方では深刻な水不足が報じられていましたが、先ずはこちらも一安心と言ったところでしょう。被害に見舞われた皆様にお見舞いを申し上げます。そして当方にもお見舞いをいただいた皆様に御礼を申し上げます。
 www.yado.co.jp/hasi/kumamoto/midorik/reidai/reidai.htm
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川つながり・織田家

2007-07-08 14:46:00 | 歴史
 織田信長の直系で一番近いのは、二男織田信雄の二男・高長の流れだといわれる。この高長は細川家とは切っても切れない因縁がある。高長の履歴を見ると信友の名乗りが見えるが、いろんな史料でも次のような詳細はなかなか窺い知れない。それは長岡主膳信友と名乗って細川忠興の下にあって、細川妙庵(幸隆)亡き後豊前竜王城を預けられていたという事実である。細川家家臣一万二千石藪内匠政一の婿になって長岡姓を名乗っている。綿孝輯録は「慶長十六年・・御家を被立退候」と記している。父信雄の遺領について、天童藩織田信昌と相続を争い細川忠利・前田利常の応援をうけて幕府の裁定を得て、大和松山の宇陀藩藩主となった。(31,000石)。高長・長頼・信武と続いたが、信武代に「宇陀崩れ」という家内の騒動で信武は自裁、嫡男信休二万石減封されて丹波の柏原(カイバラ)に転封される。その孫信旧(ノブヒサ)に細川宣紀の娘(岑姫)が嫁いだ。岑姫の兄・細川宗孝が江戸城中で誤って殺された事件では、この織田信旧が事件の処理に奔走したと伝えられる。残念ながら岑姫は24歳の若さで亡くなられている。
 じつはこの柏原藩は、元々は信長の弟信包が初代藩主で三代続いたが、無嗣断絶している。信包の嫡男信重は相続争いに敗れ、伊勢・林藩主となった(10,000石)。その室は管領斯波氏の末・津川義近の娘であり三男津田次郎左衛門(三十郎長相)は細川家臣となり三百石。同じく細川家臣の伯父津川辰珍(1,250石)が三十郎に七百石を分知するという面白い出来事があった。(侍帳をご覧あれ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川つながり・高松藩松平家

2007-07-08 09:00:39 | 歴史
 藩祖は水戸徳川家の嫡男(頼重)である。水戸藩二代目は弟光圀(黄門)が継いだが、三代目は頼重の子・綱条が養嗣子となって継いだ。高松はといえば光圀の子・頼常が養嗣子となって二代目となる。(それぞれがそれぞれの子を養嗣子としたわけだが、ここではその詳細は省略する)三代目・四代目は藩祖頼重の子や孫である。五代目は養嗣子・松平頼恭(ヨリタカ)、正室が細川宣紀女・八代姫である。(細川宗孝妹)。六代目は八代姫の子・頼真(ヨリザネ)、正室は紀伊徳川宗直の女である。八代姫の実兄細川宗孝の正室もやはり徳川宗直女(友姫・静證院)であるから、宗孝と頼真は叔父甥でかつ相婿という関係になる。高松松平家には細川八代姫のDNAが流れているわけだが、又水戸徳川、加賀前田、徳川将軍家の血が入ることになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川家と加藤・細川氏

2007-07-07 18:38:18 | 歴史
 紀州徳川家の初代頼宣(徳川家康十男)の正室は、加藤清正女・あま姫(揺林院)である。細川綱利の正室は、その紀伊頼宣の弟・水戸藩初代頼房(家康十一男)の娘(息・頼重養女だが)だから、あま姫から見れば綱利は姪婿という事になる。そんな間柄での対面など無かったのだろうか。徳川吉宗は徳川家の八代目ということになるが、紀伊頼宣の孫である。綱利の娘「菊」が嫁いだのが、吉宗の従兄弟伊予西条藩の松平頼路であるが、家督相続前に亡くなった。西条藩は弟・頼致が相続、後に吉宗が徳川宗家八代目となると、紀伊徳川家の六代目を相続宗直と名乗る。この宗直女が細川綱利の孫・細川宗孝の正室となる。殿中での不幸な死があったが、跡を継いだ名君・細川重賢の暖かい扱いを受けながら61歳で亡くなった。「紀伊の麒麟・肥後の鳳凰」と噂されたのは、宗孝室の兄紀伊・徳川治貞(宗直子・)と、宗孝の弟肥後の細川重賢のことだが、系図を紐解くと非常に近い関係にある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仲人は何方

2007-07-06 23:33:04 | 歴史
 細川綱利の正室は、讃岐高松藩松平頼重養女・久であるが、実は水戸徳川家初代頼房女である。という事はあの水戸光圀公は義兄という事になる。光圀は寛永5年(1628)生まれで、元禄13年(1701)に71歳で亡くなっている。一方綱利はといえば、寛永20年(1643)生まれで、正徳4年(1714)没71歳である。光圀公が15歳ほど年上の義兄弟となる。二人に共通することがあるが、それは二人とも父親によって流産せしめられようとしたという事実である。光圀は生母の父親によって隠匿された。綱利は光尚付の岩間六兵衛の説得により差し止められた。そもそも綱利の縁組はどのような経過をたどっての事だろうか。その後の細川家は、高松藩松平家、伊予西条藩松平家、出雲母里藩松平家、伊予今治松平家などとの婚姻関係が深まっていく。六代宗孝の正室は紀伊徳川の宗直・女である。その後も松平家や一ツ橋家との婚姻が続いていく。親藩並と言われる細川家だが、なるほどと思わせる。細川家の借金地獄も案外こんなことが原因かもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被害の少なからんことを・・

2007-07-06 21:54:05 | 熊本
 最近は全くといっていいほど外出しない。梅雨のせいだ。メタボリックは進行して体は重く、ゆるゆるだった腕時計が腕に食い込んで痛い。どのズボンもウエストがきつい。雨が上がったら早起きして歩こうと思うが・・・悪いのは梅雨だ。
1時間に85ミリも降った。県南部の山間部では100数十戸が孤立しているらしい。明日もまだまだ降り続きそう・・・とても朝の散歩どころの話ではない。
54年前に拾った命は、梅雨のせいでメタボリックに侵されつづけている。
冗談抜きで被害の少なからんことを願わずには居られない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寵臣

2007-07-05 21:16:14 | 歴史
 細川家三代・光尚の寵臣と言われた林外記のことは先に書いた。何が原因か分からない不思議な事件だが、重役の暗黙の了解があったとも伝えられている。四代・綱利にも出頭の寵臣が居たらしく、松井興長は「諫言」の中にで人事の不当を諌めている。これが果たして誰なのか、未だつかみきれないでいる。五代・宣紀代には神谷矢柄という人物があって、すこぶる評判が悪い。宇野東風著「細川霊感公」から引用すると、「矢柄専権を専にし、重臣等職を去りて家臣困憊殆ど極に達せり」とある。「奸侫朝に進めば、正義の士身を退く慣」にたがわず、江戸家老木村半平・辞職、御小姓頭平野九郎右衛門・辞職、御物頭本庄角兵衛・組下救済を求め割腹するなど、抗議の動きに列挙のいとまがない。藩主宣紀はうすうす承知をしていたらしいが、亡くなるまでの七年の歳月を無為なものにしている。細川重賢は堀平太左衛門を大奉行となし重用したが、これは宝暦の改革の重要な役割を果たした。人物力量が違った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三度のお食事

2007-07-05 17:27:44 | 徒然
 お隣の屋根の上から、14・5羽ほどのすずめが我が家を見下ろしている。猫のひたい程の我が家の庭に、ここ数日古米を一掴み、日に三度ほど撒いている。これを目掛けて待機しているわけだ。最初は二三羽何処からとも無く飛んでくると、すぐに啄ばむわけではなく、飛び去って仲間を呼んでくる。三々五々飛んできて大賑わいという状況だった。今では14・5羽が目の前で監視していて、撒いたら即の飛来と相成る。「硬いものを沢山食べすぎて、飛べなくなるんじゃないか」などと妻とバカを言いながら、餌やりを楽しんでいる。古米もあと一月くらいは大丈夫だがその後が問題だ。敵は大いに期待しているようだし、さてどうする・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爺の「夢は夜開く」

2007-07-04 23:54:02 | 徒然
 他愛の無い事だが、ここ数日間頭から離れない事がある。夜は寝付けない有様なのだ。「めだか」とか「タナゴ」を飼ってみようと思うのだ。知人との会話の中で昔話となり、そんな話となった。もう十四・五年にもなろうか、釣果の小魚を飼ったりした事がある。水がよごれては替え、石が汚れては取り出して掃除をしたりして、自分では随分務めたつもりだが、よく考えてみると、「お魚さん」のためにはチットモよくなかったらしい。一年程で全滅してしまった。「めだか」は産卵した卵を食べてしまうので、隔離しなければならないし、「タナゴ」は二枚貝に産卵するのでそんな準備をしなければ増やす事は出来ないのだそうな。趣味の店で揃えるのではなく、あくまで天然物で行きたいので、「ああしたい・こうやろう」と思って寝付けないのだ。目的地は少年時代の思いで深い江津湖周辺だ。「タナゴ」などは、今では絶滅危惧種だという。産卵の為の二枚貝が少なくなったからだろうか。「めだか」はなんとか居るだろう。爺の夢は夜開く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林外記打果候書付

2007-07-04 16:46:51 | 歴史
 細川光尚が亡くなって後、その寵臣とも言われた林外記が、佐藤傳三郎に討ち果たされた事件の種々の記録である。光尚が「領国返上」を申し出て死去し、降って沸いた一大事に国中は騒然となった。家老松井興長の養嗣子寄之(細川忠興末子)が急遽江戸へ下り、方々手を尽くして、幼少の嫡子六丸(綱利)に遺領の相続が決定する。そんな中出頭の寵臣林外記は殉死するだろうと囁かれていた。そういう状況での佐藤傳三郎の討ち入りである。傳三郎の口上書には、その原因が何であるのかが記されていない。双方十数人の死者が出たにもかかわらず、傳三郎には特にお咎めが有ったとは伝えられていない。不思議な事件ではある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謀殺

2007-07-03 23:32:26 | 歴史
 司馬遼太郎の「余話として」の中に、「謀殺」という一文がある。丹後の地侍高屋某が、細川家家老米田助右衛門を頼って降伏を申し入れてきたが、いささかその態度が横柄であったのか、忠興は腹をたててこれを切り捨てたと言う。後の一色義有(義定)の謀殺の前段の話として紹介されているが、私はその詳細を知らない。出所は何処なのか・・ご教示いただければ有り難い。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

来年は熊本ですよ~

2007-07-02 18:48:57 | 歴史
 来年の藩校サミットは熊本における開催が決定、6月21日熊本市民会館で行われる事になった。熱い想いで誘致運動に頑張られた皆様に敬意を表したい。熊本城築城400年記念の「本丸御殿大広間」の復元工事も完成間近、全国の皆様にお披露目ができるよい機会になる。今年の「藩校サミットin鶴岡」の参加者は1,300人だと地元新聞が報じている。もっともっと沢山の方々にお出でいただけるよう、民官上げての総力戦が望まれる。遅まきながら「時習館」についての勉強を始めねばならない。がんばろう・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相撲雑感

2007-07-01 16:52:47 | 歴史
 新横綱の白鵬が誕生して、久しぶりの二人横綱での名古屋場所もあと一週間となった。白鵬は土俵入りも熊本ゆかりの不知火型(熊本出身横綱・不知火諾右衛門の型)で応援したくなる。朝青龍はいささか品格に欠けたが、白鵬は良い横綱になりそうな予感がする。
 かつて熊本には相撲行司司家の吉田家があった。現当主が経済的問題で行き詰まり、日本相撲協会との関係も修復されないまま、由緒ある吉田司家の屋敷も売り払われ、現在はマンションに生まれ変わっている。かっては横綱の認証自体が吉田司家で行われていたが、相撲協会自身が行うようになり、それでも新横綱は司家を訪れ十三尺土俵で土俵入りをしたものだ。その最後の横綱は、第59代横綱の隆の里(現鳴門親方)、昭和58年名古屋場所で優勝して横綱となった。その隆の里も土俵入りは不知火型だった。
 吉田氏を肥後熊本に招聘したのは細川綱利だが、顔をしかめておいでの事だろう。そんな綱利に対して顔をしかめたのは、細川家筆頭家老の松井興長。綱利に対しての諫言の中で「昼夜通しての御酒宴・・・遊興・・・相撲取りの召抱え」など辛らつ極まりない。吉田氏の召抱えはそんな諫言の後の事のようだ。馬耳東風の国主様である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする