津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

幻の城

2008-01-23 10:33:24 | 歴史
 熊本市のすぐ隣町に、宇土郡富合町がある。熊本市の南、緑川を境としたかっての宇土支藩が領していた地域である。熊本市の政令指定都市を目指して市町合併の話しが進んでいるし、新幹線の大掛かりな操車場施設の建設もすすんでいる。そんな富合町の杉島地区は幻の熊本城建設の目論見が有ったらしい。
 この事は、加藤清正と細川忠利との間で交わされた話によるものだ。清正は「我等国本河尻杉嶋と申処能城地にて四神相応と相見え申候、此処に城を取建度存候へとも、小西(行長)と境目にて彼方の領分にて候、残念なる儀・・」と語ったという。忠利は肥後入国後其の地を実際に見に出かけたらしいし、光尚に対しても話しをしていたらしい。ある時、三齋が光尚に「城地は何所が能と被存候哉」と尋ねると、「居城にハ川尻可然候ハんか」と答えたという。三齋は「熊本ハ主計頭(清正)肥後半國領地之時築城候なり」と説明をしたあと、後に光尚を「たヽものにてハなき(只者ではない)」と喜んだという。忠利は「何とそ彼所に御居城被成度御積なとも有之候へとも、莫大之儀中々御手ニ及はれす、黙止され候」と、断念したらしい。光尚にも同様な考えがあったと綿孝輯録は伝えているが、「一国一城令」によりあちこちで城が破却されていく中で、少し「眉唾」な話しではある。綿孝輯録の編者小野武次郎も、最期に「何歟実なりや」と?をつけている。しかしながらロマンに満ち溢れた話しではないか。
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光尚の思い

2008-01-22 19:21:09 | 歴史
 光尚の生母保壽院(徳川秀忠養女・実小笠原秀政女)は、徳川家康の外孫である。光尚に徳川一族の係累としての思いは強かった事は当然であろう。年表にして眺めると、それは一人光尚の生涯ではなく、細川家の存亡さえもが危機的であったことが分かる。
      
   寛永十三年(1636)十月十四日 室・烏丸氏(彌々姫)死去(十七歳)
   寛永十五年(1638)一月    嶋原乱に参陣
   寛永十八年(1641)三月十七日 父・忠利死去
   寛永廿年(1643)正月八日   嫡子・綱利(六丸)誕生
   正保二年(1645)十二月二日  祖父・忠興死去
   慶安二年(1649)十一月廿四日 母・保壽院死去
   慶安二年(1649)十二月廿六日  光尚死去(三十一歳)

 光尚の治世がわずか八年余りであった事に驚かされるが、これをもってしても、光尚の無念さが感じられる。嫡男が幼いゆえ領地はお返しするという光尚の思いは、徳川一族係累の者としての、偽らざる思いであったであろう。
光尚の病気は、ひどい痔疾であったと言う。あまりの痛さに天井から縄を下ろし、それにすがって痛みに堪えたというから、生半可な話しではない。母・保壽院の看病に身も心も使い果たし、僅か一月をして後を追うようにして亡くなっている。幼い六丸と生母清高院
の奔放な生き様が始まる。
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熊本城図

2008-01-22 11:28:42 | 歴史
                                    (クリックすると拡大します)

一昨日(20日)メールで「熊本城図」が送られてきた。画面の左後方に丸い形の山が描かれた、おなじみの構図の熊本城図である。東京在住の丁氏のご厚意である。有録士族基本帳に四名の「丁」氏の名前が見えるが、其の中の廣之氏の曾孫にあたられる。廣之氏は津奈木村の二代目村長、そのご子息は明治・大正期のジャーナーリスト丁吉次氏である。水俣出身の氏は大江義塾に学ばれたらしいが、徳富蘇峰とは同郷ゆえの事かと思われお尋ねすると、まさしくそうであった。後日蘇峰及び蘇峰の父・一敬の書の写真もお送りいただいた。
 
 さてこの絵、原画は江戸後期の物とされているようだが、同時期に描かれたものであろうか。同じ絵師かもしれない。このようなものがまだまだ存在し、愛蔵され親しまれている事実を知ると、ちょっと嬉しくなってしまう。蘇峰・一敬の書についても、現在準備中の「フォトライブラリー」でご紹介しようと思っている。
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気が付けば「後の祭り」

2008-01-22 09:46:55 | 徒然
 東京福祉大学の理事長中島氏は、茶屋四郎次郎の子孫だというが、馬鹿をやって家名を汚した。船場吉兆湯木家も、一族に対して多大な迷惑をかけた。「白い恋人」や「赤福」や防衛省の高級官僚や、その他諸々、不祥事が続出している。すべてに常識を逸脱した「おごり」が見える。中島氏の行いなど、救い難い破廉恥人で教育者などとは片腹痛い。皆が「悪名」を担いで生きていかなければ成らない。下手をすると社会から抹殺されかねないことを、「おごり」が気付かせていない。

 二百年・三百年経過しても、「悪名」は史料として残されていく。ご子孫の思いは如何であろうかと、ふと同情する事もある。出頭し君側にあって藩政を壟断したり、家名を上げる為に策を弄して失脚したり、時には「死」をもって購わなければならないこともある。死語となりつつある「家名」と言う言葉も、このような事件が起ると息を吹き返してくる。それは現在の自分が存在する「歴史」であり「証し」であるならば、名を汚した罪は自業自得としか言い様がない。気が付けば「後の祭り」だ。

 
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侍帳・元禄●●比カ

2008-01-21 12:23:52 | 歴史
 1/14のブログ「わが『侍帳』の資料」に大いなる勘違いがあったので、ここでお詫びと訂正をしておきたい。東京在住のK氏は、ご先祖様に関わる研究をまとめておられるが、その内容の濃密かつ詳細な記述に驚いている。膨大な其の原稿をお送りいただいた。引用する記述についてその出典を明らかにする事は、特に歴史に係わる物については重要である。K氏は当サイトの「新肥後細川藩侍帳」を参考にされて、その内容についていくつかの質問をいただいた。「侍帳・元禄五年比カ」という侍帳が「肥後細川家侍帳(二)」(熊本大・松本寿三郎教授編)にあり、同様の名前のものが「熊本藩侍帳集成」(熊本大・松本寿三郎教授編)にも掲載されている。当サイトはこの二つの侍帳を元に作成したものだが、「侍帳・元禄●●比カ」はまったく同じものだと思い込んでいたのだ。処がK氏のご指摘でどうやら違うものであるらしい。後者は「元禄初比」とあるようだ。K氏のご先祖様「惣右衛門」殿に関する記述が、二つの侍帳でまったく違う事に気付かれてのご指摘であった。負け惜しみではないが、良くぞお気付きいただいたと感謝である。そして強弁するならば、私の「侍帳」は間違ってはいないのである。二つの侍帳の内容はまったく同じと思い込んでいたから、後者の「侍帳・元禄初比」はまったく採用していないからである。ただ1/14日のブログの「一覧表」で誤ってしまった。(弁解・・デス・・)
(慎重さに欠けるのが、私の最大の欠点です・・身にしみました・・・)
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熊本城みてある記

2008-01-21 11:20:55 | 熊本
 2006年5月から熊本市は、「市政だより熊本」に熊本城に関する古地図などを紹介しながら、詳しい解説を載せている。ずっと採っておいたのだが二三抜けている部分があって、それが悔しくてたまらない。「インターネットで見れますよ」と教えられて、熊本市のHPを見てみると「あったー」
 「熊本市HP」から、「暮らし環境」→「市政便り・生活便利ブック」と検索すると、「熊本城見てある記」にたどり着く。2006年5月が第1回で現在もまだ続いている。熊本城研究の第一人者・富田紘一氏による大変優しい解説で、なかなか面白い。何事も事前に調べた上で現地を見ることが理解を深くさせる第一歩だが、此のシリーズは秀逸でお勧めである。
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十が一ほどの目出度さの後・・・

2008-01-20 12:55:41 | 徒然
 昨日66回目の誕生日を迎えました。外出して遅く帰ってきた妻に自己申告しても「あらそうだったの」と言われる始末です。「目出度さも十が一ほどの誕生日」です。
そんな中五人目の孫(外孫・男子)が今朝早く誕生しました。こちらは「目出度さ100%」の喜びです。誕生日が同じだと、爺様もいっしょに祝ってくれるかなー等と、密かに考えていたのですが、残念ながらの一日違いと成りました。神様は爺の不埒な思いをお見通しの様です。こうして家系や血が受け継がれることは、様々な歴史の一端を毎日のぞき見ている私としては、本当にありがたく思うと同時に、平和や環境に思いをして彼らの時代に付けを残さない様努力をしなければと、思いを強くさせています。
今日の熊本はあいにくの雨になりましたが、孫殿に初お目見えと参りましょう。
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阿部一族の屋敷

2008-01-19 14:30:29 | 歴史
 阿部一族の誅伐事件は、森鷗外の「阿部一族」でご承知の通りだが、鷗外はその屋敷が何所にあったのかは承知していない。その屋敷跡を確定したのは、作家にして郷土史家の荒木精之氏である。肥後銀行本店の裏手、現在は熊本放送(RKK)本社ビルがある場所である。綿孝輯録(巻60)の同事件に関する記述の中に、そのヒントがある。「一書、阿部屋敷は山崎の今は齋藤勘助屋敷、栖本ハ今の有吉専助屋敷、山中は今の鯛瀬三郎太郎屋敷なり、又一書に、向屋敷は山中又右衛門、両隣は栖本又七郎・外山源左衛門祖父平野三郎兵衛屋敷と云々、又一書、南西隣は栖本又七郎、北隣は山中又兵衛、向屋敷は外山源左衛門・平野三郎兵衛と云々」とある。ならば、山崎町の齋藤勘助屋敷とか、有吉専助屋敷が何所にあったのかが分かれば、至極簡単に判明する事であるが、現在は「新熊本市史・別録第一巻--絵図地図-上」に「山崎之絵図」として掲載されていて、荒木先生のご苦労は何であったのかと思わせる。花畑御屋敷から南に真っ直ぐ走る道筋は、殆ど変わっていない。暖かくなったら、「山崎之絵図」一枚をコピーして、約120軒ほどの屋敷跡を廻ってみようかと考えている。
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わが部屋引越し

2008-01-18 13:42:56 | 徒然
 ちょっと訳ありで我が部屋を引っ越す事にしたが、コンピューターの接続の為にケーブルを張り替えたりで大事になってしまった。本やら史料やら、いろいろ整理しながらの作業は都合三日掛かりになってしまって、疲れるやら腰が痛いやらで散々である。しかし今日の熊本はいいお天気で、気温も上昇あちこちの窓を開け放して空気を入れ替える。靴下をぬぎ、セーターを脱ぎ、掃除機をかけたり、本棚周りを雑巾かけなどしなれぬことをしながら、史料をひっくり返していると、行方不明の史料や古い手紙などが出てきて、眺めこんでしまって一向整理が進まない。ブログねたになりそうな史料はないかしら、などと思うと捗らないことおびただしい。わが家うち引越しもこれにて最期にしなければ成らない。
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町氏「無念の儀」

2008-01-17 08:44:12 | 歴史
 肥後・町家初代源右衛門は、長曾我部元親の二男で、初め吉良左京進と名乗った。元和二年忠興により、江戸で召し出された。長曾我部の「長=ちょう」から、「町=ちょう」と氏を改めたとされるが、侍帳では「ちょう」であったり「まち」であったりで、ハッキリしない。此の源右衛門は、江戸留守居役を勤めたが、光尚室彌々がなくなった折、忠興の激怒をかい、暇を出された。「大日本近世資料・細川家史料」の人名一覧の源右衛門の項には、「無念の儀あり」と説明されている。情報が伝えられなかった事に対する三齋の怒りが原因とされるが、このことは光尚が年老いた三齋を想い、報告を差し控えさせたというのが真実らしい。後の再召し出しが約されていたらしいが、光尚の若き死により源右衛門が再び細川家に仕える事はなかった。まさに「無念の儀」ではある。
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江戸版・ゼンリン

2008-01-16 20:29:18 | 書籍・読書
 「新熊本市史-別編第一巻-地図絵図」とにらめっこをしている。江戸版ゼンリン地図と言っていいような地図で、誰が何所に住んでいたかが分かる訳で、なかなか面白い。随分以前に侍帳の中に、「何ページにお宅のご先祖様のお家が有りますよ」と頁数を入れてみようと考えた事がある。それをやってみようかと、ふと思い立っての事である。本に直接チェックを入れるわけにもいかず、まずはコピーをしなければ成らない。どうしたら効率よく事を運ぶ事ができるか、目下検討中。これは相当時間がかかること請け合い。我が家は三代三軒の屋敷跡を発見した。ある方に屋敷跡をお教えして喜んでいただけた事が発端である。「暇人だねー。ご苦労さん。」
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吾亦紅

2008-01-15 10:43:11 | 徒然
 去年12月の中ごろ、何の気なしにTVを見ていると、歌手の和田アキ子が土下座している。何事と思って聞き耳をたてると、紅白初出場の某歌手のことを「全然知らない」と発言した。実は其の人が、和田に楽曲を提供していたのだという。それを知っての土下座となったのだが、その時私も「すぎもとまさと」なる歌手の名前と、「吾亦紅」なる曲名を知った。今はブレィクして大変な売れ行きらしいが、小父さん歌手が頑張っているのは、なかなか善いではないか。今は亡き母親を想う切ない内容の歌で、団塊世代の人達が買っていると聞くが、歌詞に自分自身をダブらせているのだろうか。
「茶花」にも使うのではないか「われもこう」という名前は知っていたが、どのような花なのか知らなかった。阿蘇の草原にでも咲いていそうな、野の花だが、其の色合いは豊かである。母親の面影に結びつけた作詞家の感性に敬服する。

 人は夫々に母親を花になぞらえる。TVから流れる歌を聴きながら、私の母親は何の花だろうと思ったりする。季節柄ではないが「水仙」だな。・・・「水仙」では歌にはならないなー・・・。

 
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わが「侍帳」の資料

2008-01-14 18:57:06 | memo
 元熊本大学教授・松本寿三郎氏(現・崇城大学教授)編による二つの「侍帳」

「肥後細川家侍帳」「熊本藩侍帳集成」  
  (一)1、        1、     妙解院殿忠利公御代於豊前小倉
                       御侍衆并軽輩末々共ニ
     2、        2、     肥後御入国宿割帳
               3、       寅十二印御侍帳 寛永十年頃
     3、        4、     真源院様御代御侍帳
     4、        5、     真源院様御代御侍免撫帳
     5、        6、     寛文四年六月御侍帳
     6、        20、     慶安四年より元禄四年迄
                       御暇遣候御侍中之名附
  (ニ)7、        7、     御侍帳 元禄五年比カ
     8、        8、     肥陽諸士鑑
  (三)8、                 同上 
  (四)9、        9、     御侍帳 享保八年写
     10、       10、     御国中御侍以呂波寄
     11、              文化十三年肥後細川様家中御知行扣(全)
              11、     士席以上御礼之次第并名前御知行高 
                               文化十二年写
     12、       13、     文政三年正月調 士席以上名録
     13、              肥後御家中新旧御知行附
     14、       12、     御家中知行六
              14、     御知行取以呂波世勢 天保弐年出来
     15、              弘化二年写 御家中御知行高附
              15、     御侍帳 家紋入り
     16、       16、     文久二年写 肥後世襲士籍
     17、       17、     御家中知行附
              18、     御侍帳 万延二年三月朔日
              19、     十二組名附帳
              20、     宝暦六年以後御知行被召上候家々(抄)
                               付世禄断絶例  

 以上の資料と、現・永青文庫史料員川口恭子氏の「細川家家臣略歴」を資料に、当「新・肥後細川藩侍帳」は作成されています。
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20年初、図書館行き

2008-01-14 14:17:41 | 徒然
 熊本県立図書館は、熊本市立体育館と隣り合わせている。図書館に出かけようと、チャリンコを飛ばしていると、ちらほらと着物姿のお嬢さんが目立ちだした。「そうか、今日は成人式だ」と思い至って尚進むと、なんと「成人式」が「熊本市立体育館」で行われるらしい。パトカーが数台でて交通整理をする有様。そんな中をぬって図書館へと今年の初出勤である。多分成人式で駐車場が使えぬことを皆さんご存知なのであろう、意外と来場者が少ない。チャリンコで来たのは正解だったなーと考えていると、免許証といっしょにしている「貸し出しカード」を忘れてきた事に気づいた。受付に申し出て所定の手続きをして数冊の本を借り、一時間ほど調べ物をして今日は早々に退散。出かける妻に代わっての、老犬の介護が待っている。暖かい日差しがあると、頬に受ける冷たい風が本当に気持ちいい。思わず口笛を吹きたくなる気分の、今年初めての図書館通い。
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後藤又一郎の病気とその後

2008-01-13 19:01:11 | memo
 後藤又一郎(又兵衛子)の病気とその後を、大日本近世史料・細川家史料からみる
■元和六年六月八日書状
後藤又一郎儀、五月中比より爰元はやり煩を煩申候、然共本復仕候處ニ、此四五日已前より気ちがひ申候而、むさと仕たる儀迄申候、大形にも御座候ハヽ、中津へ遣度御座候へ共、中/\道中今の分ニてハ成様子ニて無御座候、無是非儀共と奉存候、何とそ養生させ申、少よく御座候ハヽ、中津へ遣可申と奉存候事
■ 同年 八月七日書状
後藤又一郎儀、成ほと此方二ても養生仕候、され共本復不仕候、ものをハ一段給候而、しヽなとも前よりハこへ申候、此中の薬ちとハあひ申候哉、少しつかに成申候、被召置唐人之薬給させ度存候間、成ほとに御座候ハヽ、上せ申度存候へとも、中/\のり物も、又ハとまりニても、戸かへもたまり不申候様ニ御座候つる故、何と仕候ても上せ可申様無御座候き、此比少しつかに成申候間、見合差上せ可申と奉存候事、委細又兵衛可申上候
■ 同年 九月二日書状 一部抜粋(魚住傳左衛門宛)
又一郎ニ其元ノたうしん(唐人)薬をむりニもらひ候て、のませ申候へハ、少しつまり申候間、近々のほせ可申候間、又其元ニてたうしんニ被仰付候様ニ、可被申上候
■ 同年 九月五日書状
後藤又市郎儀、此比少静ニ罷成候條、路地すからも■くるしかるましきと存、差上申、其元ニ居申候唐人之薬被仰付被遣候ハヽ、可奉忝存候事
■ 同年 閏十二月十六日
仍後藤又一郎儀、少峯薬にて彌本復仕候、さ候ニ御座候へハ、母已下色々やしなひ申候者多御座候故、何とも身上つヽきかたく見え申候、御国役なとも調かね可申候、今少拙者知行之内をも遣不申候ハヽ、何ともなり申ましく候、いかヽ可仕哉、得御意候、次其元ニ被成御座候ハヽ、何(と)被成候とも御心つき可申候、何時なりとも拙者可参と奉存候て罷有候間、御一左右次第ニしかう可仕候、此等之趣、可然様ニ御披露處仰候
■元和七年九月二日
後藤又市郎儀、去冬中津より江戸へ申上候キ、御病中ニて御座候故、御書ハ不参候間、重而得御意候、母も参候故、何とも身躰難成御座候而罷有候、後々迄も、いかようの儀御座候とも、はたし申間敷由、乃美主水(景嘉)を以御諚にて御座候キ、左様ニ思召候ものヽ儀、今之知行にてハ身躰何共不罷成候條、知行加増仕、無役にも可申付候哉、奉得御内意候、無役ニ成共、役申付候て成とも、御諚次第ニ知行遣度奉存候、但御心持も御座候哉と奉存候申上候事
■ 同年 九月五日
後藤又一郎儀被仰せ付け被下候時、知行五百石迄を遣、其後は主奉公次第ニ可仕由被下候由を、主馬ニ被仰越候、又一郎被下候時、御租は之者ともより状をそへ参候、五百石之知行の儀、何とも不申越候故、其儀不存、今度申上候 

 上記書状は忠利から三齋に宛てた書状の抜粋である。又市郎は幼少の折父後藤又兵衛から忠興(三齋)が預かり養育し、田邊籠城をはじめ功を上げている。そんな又市郎の処遇について 三齋の意見を取り入れようとする忠利の配慮が見て取れる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                
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