黒田蔵人(のち伊丹正重・角助)について、わが「侍帳」では次のように紹介している。
豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂にて細川忠興に召出さる。室・加藤重徳女 後室・米田是政女(前・飯河肥後室)
牢人した蔵人は、黒田家からの再仕官の話しを断るが、黒田家は再三の説得を試みている。忠興は、高知行でもよいから蔵人を召抱えようと、熱心に説いている。黒田家にたいする対抗意識が見える。「蔵人は将軍家の耳に達したる者」だから、「是非とも」という訳だ。元和五年十月十五日の内記(忠利)宛ての忠興書状は長文で、その思いが切々と書かれている。「細川家史料7-1710」
蔵人の室は、黒田如水が牢の中に在った時の牢役人・加藤重徳の女である。如水は重徳の扱いを感謝し、息を養子とした。のちの黒田三左衛門であり、代々家老職を務める。
後室は、細川家家老米田是政女だが、誅伐された長岡(飯河)肥後の室であった人である。これらの事からしても、蔵人の実力の一端が窺がえる。
忠興に望まれた蔵人だが、その子孫についてははっきりしない。二三代のちに絶家でもしたのだろうか。「追っかけ」を続けなければ成らない。・