津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

家中の「女」からの借金

2008-01-12 20:29:00 | 歴史
 三齋が忠利に送った書状に、大身の家臣の借金が深刻な問題に成っている事をうかがわせている。
あの家老まで勤めた沢村大學が、中路周防女から慶長二十年頃八木五十石を借りて三年ほど弁済しない。其の話しが三齋の元へ持ち込まれた。文中には「四和利にかり」とあるのは利息であろうが、元利合わせて三年で百三十七石餘とある。三齋が取り立てて借状を大學に返す事で決着したらしい。
今一つは三齋の乳母を務めた大局(中村新助女房)女から、遠坂越後が借米している。

 「女ふせいの物をかり候て、同シ家中ニ有なから高知行取者共成次第ニ申のへ候事ハ、事之外無理かと存候」と三齋は記している。「事之外無理」とはどういうことだろうか。
当時大学は三千石、遠坂越後は千五百石の家禄であるが、それなりの家来を抱えなければ成らない身分だから、出て行くものも多かったのだろうけれど・・・

後藤又兵衛の子・又一郎なども生計が立ち行かなくなり、無役として何がしかの加増が検討されたりしている。高禄の人達にとっても、なかなか厳しい時代であったらしい。
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コネ就職

2008-01-12 12:45:45 | 歴史
 賤ヶ岳七本鑓の一人平野長泰は、鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。一説には平野長治は舟橋宣賢の孫で、公家の舟橋家からの養子とする説がある。(ウキペディアより) 元和七年当時長泰のおい・源太左衛門は肥後加藤家にある。そのおいを細川家に「抱候様」にとの依頼があるが、加藤肥後(忠広)が手放そうとしない。いろいろ経緯があったのだろうが、源太左衛門は忠利に仕えている。八月廿九日書状で忠利は、「以後の(長泰の)奉公人召抱え」については断りたいとぼやいている。加藤家との間にいろいろ軋轢があったのだろう。舟橋宣賢といえばその女が細川幽齋の生母でもあり、そんな関係があったのだろうか。何時の時代もコネはある。
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桜の馬場・計画

2008-01-12 08:48:48 | 熊本
 熊本市民会館前から熊本城大手門にいたる、坂道の左側に広がる一帯を「桜の馬場」という。かってはプールがあったあとの駐車場と、国の出先機関が入る合同庁舎があるが、これは熊本駅前再開発に伴いそちらへ引っ越す事になった。駐車場跡地利用の事が、「桜の馬場」の名前と共にクローズアップされてきた。今日の地元新聞は、ここに「江戸町屋」街を模した施設建設が計画されている事を発表している。中々よい計画ではないか。 熊本は巨大なお城はあるものの、西南戦争で灰塵と化した城下町に往時を偲ぶ街区や建物が残されていない。これが城下町として風情を欠くきらいがある。お城の外にこういった感じの街区ができないものかと考えていたが、これは不可能に近い話しで、今般のこの計画は「GOODじゃーないか」ともっこす爺も合点している。
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