三齋が忠利に送った書状に、大身の家臣の借金が深刻な問題に成っている事をうかがわせている。
あの家老まで勤めた沢村大學が、中路周防女から慶長二十年頃八木五十石を借りて三年ほど弁済しない。其の話しが三齋の元へ持ち込まれた。文中には「四和利にかり」とあるのは利息であろうが、元利合わせて三年で百三十七石餘とある。三齋が取り立てて借状を大學に返す事で決着したらしい。
今一つは三齋の乳母を務めた大局(中村新助女房)女から、遠坂越後が借米している。
「女ふせいの物をかり候て、同シ家中ニ有なから高知行取者共成次第ニ申のへ候事ハ、事之外無理かと存候」と三齋は記している。「事之外無理」とはどういうことだろうか。
当時大学は三千石、遠坂越後は千五百石の家禄であるが、それなりの家来を抱えなければ成らない身分だから、出て行くものも多かったのだろうけれど・・・
後藤又兵衛の子・又一郎なども生計が立ち行かなくなり、無役として何がしかの加増が検討されたりしている。高禄の人達にとっても、なかなか厳しい時代であったらしい。
あの家老まで勤めた沢村大學が、中路周防女から慶長二十年頃八木五十石を借りて三年ほど弁済しない。其の話しが三齋の元へ持ち込まれた。文中には「四和利にかり」とあるのは利息であろうが、元利合わせて三年で百三十七石餘とある。三齋が取り立てて借状を大學に返す事で決着したらしい。
今一つは三齋の乳母を務めた大局(中村新助女房)女から、遠坂越後が借米している。
「女ふせいの物をかり候て、同シ家中ニ有なから高知行取者共成次第ニ申のへ候事ハ、事之外無理かと存候」と三齋は記している。「事之外無理」とはどういうことだろうか。
当時大学は三千石、遠坂越後は千五百石の家禄であるが、それなりの家来を抱えなければ成らない身分だから、出て行くものも多かったのだろうけれど・・・
後藤又兵衛の子・又一郎なども生計が立ち行かなくなり、無役として何がしかの加増が検討されたりしている。高禄の人達にとっても、なかなか厳しい時代であったらしい。