津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

女持不申候者--後日談

2008-01-31 11:33:22 | 歴史
 寛永九年三月十日付書状の内「女持不申候者」のリストから、松野右京をはずす旨の書状が、翌十年七月二十一日付(書状案)で発せられている。独身である事は間違い無さそうだが合点が行かぬ話しである。
 同書状の後書きに「尚々、右京殿儀、事之外不辨ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年なと女房よはれ候儀は調兼可申と、推量仕候(以下略)」とある。肥後入国宿割帳には千石とあり、後の数種の侍帳には千五百石とあるから、五百石の加増がこの時期行われた事が推測される。そんな大身の身である右京が、それでも「女房よばれ候儀は調兼可・・」とは、どう解釈すればいいのだろうか。
 下って八月十三日書状(案)は「松野右京(正照)殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候、阿蘇之神主(阿蘇惟善=右京とは縁戚関係がある)へハ未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内証ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々被其意候へと迄申聞候つる・・」とある。「如何致しましょうか、御諚次第にしたいと思います」と三齋に送った忠利の書状であるが、・・・(よく分からん・・?)処で右京さんの奥方は何方なのだろうか、ご存知の方はご示教いただければ幸いである。

 そして、その他の者達(先のリストにあった人達)にも、忠利から「縁邊可申付候」と、結婚を促するような記述が有る。(何故・・どうして・・よく分からん・・?)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疱瘡という病

2008-01-31 11:25:45 | 歴史
 昭和42年WHO(世界保健機構)は日本人・蟻田功氏(現・国際保健医療交流センター・理事長)をトップとして天然痘の撲滅運動を開始、昭和54年「天然痘は世界から根絶された」ことが宣言された。蟻田功氏は我が誇るべき熊本県人である。現在では天然痘と呼ばれる病気だが、江戸期においては「疱瘡」とよばれ大変恐れられた病気だ。緒方洪庵の研究による切痘によって予防が成される事になった。その天然痘予防の活動を幕府が公認するのは、安政五年(1858)のことである。

 「一度疱瘡に罹患した人は二度とは罹らない」ということを、人々は知っていたらしい。貴人の乳母を勤める人は、疱瘡の罹患経験者が多かったという話もある。

 寛永八年十二月忠利室が疱瘡に罹ったが無事本復した。「六(光尚)事少も煩不申候」と喜んでいたら、寛永十一年十二月その光尚が罹患している。周囲の心配は極に達するが大事に至らず無事本復したわけだが、その喜びの報告書状には別途「疱瘡仕候衆」として、嶋津光久や木下俊治が本復したこと、立花忠茂室は亡くなったことなどが記されている。流行していたのだろうか。
 面白いのは医師半井成信が、「疱瘡ニ貝蚫大毒にて候、熨斗迄もあたり候由、二親兄弟おち伯母迄もくゐ候へハたヽり申由・・・」と言っていると記されているが、ばかばかしい話しだが、それ故にこの時代の疱瘡の恐ろしさを象徴している話しではある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする