津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

豊前から肥後へ・寛永八~九年の史料から

2008-01-29 20:16:20 | memo
「大日本近世史料・細川家史料(十)」から、細川家の肥後入国までを探ってみる。

8*8/3書状案(解説)
 ■加藤忠広の酒狂誰ソノ諫言ニテ少シ直ル
9*4/27書状案(解説)
 ■肥後国人加藤家年寄切々談合セルヲ傳フ
 ■忠広狂気カ帰国後家臣ニ会ハズ
9*5/朔日書状案(解説)
 ■加藤忠広等ハ七月頃参府トノ噂
9*5/11書状案(解説)
 ■肥後国中加藤忠広ノ身上ヲ気遣フ
9*5/16書状案(解説)
 ■加藤光広家臣上書ハ諸方ヨリ通報アレド実正ハ知レズ
 ■加藤家中何トナク異常アリ・重臣等他国ノ親類ニ妻子ヲ頼ム
 ■上書ノ件家中ヘハ早ク傳ハルカ
 ■忠広ノ出府後家中ノ不安彌増ス

 ■忠広ニツキ嶋津家久ヨリノ書状ヲ受取ル
9*5/28書状案(解説)
 ■加藤家中静カナリ
9*6/朔日書状案(解説)
 ■五月廿八日頃ヨリ肥後領内一切宿ヲ貸サズ
 ■熊本ニ横目多シ
 ■八代城他国者ヲ入レズ
 ■白川ノ渡ニ番ヲツク
 ■領内人改厳シク探索人ヲ入レ得ズ
9*6/6書状案(解説)
 ■加藤忠広品川ニ逗留ス、屋敷ノ出入モ目付ノ切手ニヨル
 ■忠広ニ秀忠他界ノ節ノ法度違反多シ
 ■謀反ノ穿鑿以前ニ忠広ノ進物受納ナキハ他ニモ理由アラム
9*6/13書状案(解説)
 ■加藤家中ハ光広ノ謀書ヲ知ラズ
 ■忠広ノ不届ヲ種々承知セルゆえ身上果ツベシト見切ル

 ■幕府ノ忠広父子改易ノ仕方ニ感ズ
 ■忠利モシ城請取ニ當ラズバ見苦シカルベシと想フ
9*6/15書状案(解説)
 ■熊本城中上下加藤忠広ノ命アル迄葉籠城ト定ム
 ■変事アレバ国東ノ横目衆ニ相談セム
9*6/16書状案(解説)
 ■忠利等へ熊本有事ニハ出兵セヨトノ触来ル
 ■城受取ノ上使衆小倉へ立寄ル予定
 ■諸方ヨリ忠利ノ肥後国替ヲ通報サルヽモ信ゼズ
 ■加藤家中主ヲ江戸ニ置キ籠城ハナラズ、肥後出兵ハアルマジ
9*6/19書状案(解説)
 ■熊本出兵ノ為三齋ヨリ銀米ヲ借ル
 ■上使衆ハ人足共ニ一萬馬一千餘、小倉ノ宿兵糧馬飼糧旅籠マデ支障ナシ
 ■肥後出兵ノ人数一萬ニ三千馬数ハ一千餘
 ■肥後ノ注進ニ豊後路中国迄舟手ヲ一手ニ支配ス
 ■忠広ノ江戸召喚ニ家臣ノ走ルハ憎キ仕合
 ■熊本城内ノ動静
9*6/27書状案(解説)
 ■熊本城ハ上使到着次第明渡ス態勢、熊本ノ侍は千五百程
  千ハ先ズ在々へ退ク、五百ハ未ダ熊本ニ在リ
 ■加藤忠広子等本丸ニ在リ、籠城ノ様子ハナシ
 ■肥後行ノ準備了ル
 ■熊本ニ籠城ノ気配ナシ
 ■人持共荷物ヲ他国へ退ク、家臣等諸方へ居所ヲ才覚ス
 ■加藤忠広ノ自筆ノ書状下ル、男ヲ止ムトテ人持等剃髪ス
 ■忠利ノ肥後国替ハアルマジ、伊達政宗カ中国衆肥後へ転封セシメラレム 
9*7/5書状案(解説)
 ■松平忠昌兄弟肥後へ転封ノ噂
9*7/12書状案(解説)
 ■上使稲葉正勝等ノ船無事ニ小倉ニ著ス
9*7/18書状案(解説)
 ■忠利ノ肥後国替確定トノ取沙汰

 ■国替ノ沙汰実ナラザル故中津へモ沙汰ナキヲ命ズ
 ■十月中旬出府ヲ指示サレシ故ニ當年国替ハナカラシム
9*7/18書状案(解説)
 ■上使衆無事小倉ヲ発シ肥後へ向フ
 ■熊本城異議ナク明渡ト定ル
 ■上使衆ノ相談ニ加ハル
 ■肥後行ノ人数壱萬七千餘馬ハ壱千内外
 ■熊本留守居福島丹波ニ倣フモ相違シ嘲ハル
 ■加藤忠広子等城ヲ出ズ
9*7/23書状案(解説)
 ■熊本城七月廿二日明渡サル、八代モ同日請取ノ筈
9*8/6書状案(解説)
 ■上使衆八月十一日小倉著ノ予定
9*8/6追而書案(解説)
 ■忠利肥後国替ノ沙汰ニ信疑定マラズ
 ■上使衆九州ノ押ハ豊前周防長門ノ領主ト論評ス、忠利ノ身上ニテハ不自由
 ■稲葉正勝忠利ノ出立ヲ九月下旬ト指示ス
 ■肥後国ハ在番衆ニ割付代官ヲ命ゼラル、正勝加藤家中人持共ノ所在ヲ求ム
9*8/12書状案(解説)
 ■上使衆小倉ヲ出船ス
 ■国替上使ノ家中モ噂スレドモソノ躰ナシ
9*9/11書状案(解説)
 ■幕府中国九州諸大名へ内々ニ早メノ参府ヲ促ス、十三日ニ出立ノ予定
9*10/6書状案(解説)
 ■国替ノ法度書

忠利十月四日登城シ、肥後国五十四万石ヲ拝領ス、同月十五日江戸ヲ発シ、十一月十一日小倉ニ著ス
三齋ハ、十月十八日江戸ヲ発シ、十一月十四日中津ニ著ス

9*10/20書状案(解説)
 ■小笠原忠眞へノ小倉入城ノ祝儀・・云々
 ■熊本城請取ノ相手ハ石川忠總石河勝政
 ■八代在番ノ朝倉在重・・云々
 ■小倉ニハ惣奉行トシテ松井興長ヲ残サム
 ■八代請取人ハ有吉立道
9*11/15書状案(解説)
 ■八代城ノ請取人数
9*11/20書状案(解説)
 ■上使衆小倉ニ著ス、一両日中ニ肥後へ出立ノ予定
9*11/25書状案(解説)
 ■上使板倉重昌等十二月四日小倉ニ帰着セム
 ■十二月五日小倉発同九日熊本入城ノ予定
9*11/28書状案(解説)
 ■上使衆熊本八代同日請取ヲ指示ス、十二月九日請取を予定ス
9*12/5書状案(解説)
 ■上使衆今日小倉ニ帰着ス
9*12/9書状案(解説)
 ■熊本城ニ入城



 
 
 
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女持不申候者

2008-01-29 10:04:10 | 歴史
 寛永九年三月十日付の書状の末尾に「別帋ニ切紙進上仕候、此等之趣、可然様可有披露候(以下略)」とあり、別紙覚書が添えられている。三齋宛忠利の書状であるから、三齋からの依頼に対する返事であろうか。いわゆる独身者の名前を書き出したものである。

 「女持不申候者」
  一、松野右京(正照)
  一、半齋(松野親盛)子・松野長蔵(親治カ)歳廿一
  一、谷 主膳
  一、圖書(藪正成)子・藪右衛門(三右衛門政三カ)歳廿四
  一、左馬允(牧興相)子・牧善太郎(相頼)
  一、藪市正(正直)
  一、右馬助(三淵重政)子・長岡左膳(同之直)歳十九

 明らかに三齋が有力家臣の娘の婿探しをしている事を伺わせる、大変興味深い記録である。過ぎる寛永八年十月、側近の槙嶋云庵女を氏家元高に嫁す事を手配したりしている。
肥後入国直前の話しだが、隠居しても尚こういうことで存在感を示している。
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