津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

1/27の大阪から思う

2008-01-28 14:38:03 | 徒然
■大阪国際マラソンはスタートしてしばらくしてから、TVのスウィッチを入れたが、一人旅の福士の姿を見て驚いてしまった。二位以下は数百メートル後ろだという。30キロあたりまでTV観戦したのだが、「これは負けるな」と感じてTVから離れた。あとでニュースをみて結果を確認したのだが、その結果と競技に対する真摯な姿勢に驚いてしまった。あのファイトと屈託のない笑顔を見ていると、真から応援したくなるではないか。誰がオリンピック候補になって、日本女子マラソン界の頂点に立つのか知らないが、次の機会にその人を負かしてしまえばいい。爺様はすっかり「福士フアン」になってしまった。

■大阪知事選は橋下弁護士が勝利、大阪らしい結果となった。莫大な負債が表沙汰になり橋下氏の憤慨ぶりも理解できるが、その舵取りやいかに・・他所ごとながら興味が尽きない。熊本はといえば、五人の方が手を上げた。誰が勝つにしても、大坂や宮崎のような話題性はないが、人畜無害の今の女性知事よりはいいだろう。という「ささやかな期待」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家家臣・志水氏

2008-01-28 10:54:55 | 歴史
 細川家根本家臣の一人に志水家がある。初代清久宗加は幽齋の歌道の弟子でもある。細川興元の旗下に在った時勘気を蒙り、子息達と後加藤清正に仕える。二男元五らは清正の元で功名し、そのことは忠興の耳にも届き慶長八年細川家に清久共々再び召出された。元五は、旧加藤家家臣の細川家仕官に尽力したと伝えられる。

 現在私は、江戸期の地図を眺める毎日を過ごしている。内坪井町に眞浄寺があるがこのお寺の開山は、清久の四男要善院日富である。当然のことながら志水家の菩提寺となっている。地図の上で眞浄寺を確認した日にまったく偶然だが、綿孝輯録の慶安二年の項に、「筑紫左近女(幸隆主御孫)、志水吉之丞ニ縁辺被仰付儀ニ付、志水新之允御家老中江正月十一之状」という記述に出会った。志水家は清久宗加を初代とするが、二代目は二男・元五が継いでいる。この書状を上げた元五の嫡子・三代目の新之允伯耆であるが文中では名乗りを克重としており、新発見であった。家老米田監物是長女を室としており、禄高六千石である。その嫡子・吉之丞に、筑紫左近重門息女(吉)との縁辺(結婚)の話しがまとまった事に対しての、御礼の書状である。後に新左衛門・元政と名乗る四代目の事と思われる。ここで志水家は細川家との血の繋がりを持つことに成る。同時に息女が西郡数馬に嫁ぐ事も決まり、又吉之丞の弟・権三が「御側可被召仕旨、被仰出」あって、喜び三重の書状である。
 ちなみに幸隆とは幽齋の三男で妙庵と号し、豊前に於いては竜王城を守衛した。能楽などに秀でて高名である。幸隆女が嫁いだ筑紫重門は、少弐氏の後胤、筑紫広門(筑紫上妻郡18,000石)の嫡男である。広門は関ヶ原戦に於いて西軍に属し、改易となり加藤清正の庇護を受け、忠興の尽力により家名を繋いだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする