津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

名誉の死・・?

2008-01-24 14:37:00 | 歴史
 嶋原一揆に於いて出陣した幕府の上使・板倉内膳正重昌は、総大将で有りながらも自身戦場に駆け入り戦死をする。正月元旦の事である。細川家は内膳正御付きとして、家臣の伊藤十之允と横山助之進を派遣していたが、これも同時に戦死した。川尻口で年越しをしていた光尚勢は、その報を聞き翌二日八千の大軍をして渡海することになる。二人の死を聞いた長岡監物は「目出度事かな、上使之討死御家来か死なで能物か、助之進・十之允でかした」と高声でその死を称えたという。横山・伊藤の死骸は「城中鉄炮稠敷打候故」「死骸を取兼候」状態を聞いた監物は、「あの様なる晴なる討死の死骸ハ取物にてハなし、其儘おくかよく候」と言ったという。堀内傳右衛門覚書には、伊藤何某が十之允の「死骸かた付参度旨」を願い出たが、監物は「願尤ニハ候へとも、如此之場所にて討死仕候死骸ハニ三日召置、諸人ニ見せ申ものにて候」と言ったと記されている。後々に伝えられる二人の、名誉の死の真実に呆然とさせられる。多くの犠牲者を出して乱の終息をみて、光尚が凱旋したのは三月の朔日である。
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ひげは「不行儀成体」

2008-01-24 13:34:59 | 徒然
 お正月の頃、「シェイバー」が行方不明になった。どんなに探しても見つからない。その結果ひげ面になってしまったのだが、これは単なる不精で言い訳にはならない。最近は若い男性が「ひげ」をファッションとして取り入れて、当たり前に成ったようだ。爺様もちょっと伸ばして楽しんでみようかと思ったりするが、女房殿から「きたない」と言われてしまう。まんざらでもない気がするのだが、四・五日後カミソリで剃り落としてしまった。
 江戸期に於いては「大ひげ」は御法度である。寛文十年と貞享三年の二度にわたり禁止令が出されたが、熊本における「下々髭つくり候儀ニ付触」は、これを遡る30年程前の寛永十九年十一月に出されている。
 「一筆申触候、下々下ひけをたて、上ひけをいろ/\つくり不行儀成体之者有之由候間、左様ニ無之様ニ各被召仕候下々堅可被申付候。先年も如申触、従公儀之御法度ニ候条、堅可被相守候(以下略)」と長岡式部ら三名の連署である。
 天草嶋原乱も終息し、平和な時代を希求するとき、武ばった「大ひげ」が御法度となり「不行儀成体」扱いになってしまった。明治に至り政治家や軍人さらには文人などの間でも「ひげ」が流行するわけだが、最近のこの有様はどう理解したら良いのだろうか。
(わがシェイバー行方不明事件は、我が部屋替えの時にPC周りの沢山のコードの中に鎮座しているのを発見、一件落着)
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